アベル F. オルテガ
1919テキサスエルパソ生まれ

米陸軍 192戦車大隊
−バターン死の行進、オドネル収容所、
カバナツアン収容所、「北鮮丸」
脇浜収容所(大阪18−B)、米原収容所(大阪10−B)



以下は、バターン死の行進、地獄船 「北鮮丸」、そして日本での強制労働を生き抜いた父を持つ、アベル・オルテガ Jr. 氏の著書 『Courage on Bataan and Beyond』  からの抜粋です

バターン死の行進

トラックから降ろされるやいなや、私たちは、俄仕立ての集合地に集められ、ひざまづかされました。日本軍の将校が最初は日本語で、そして次は、私たちがそれを理解することを当然のように、たどたどしい英語でスピーチをしました。彼は、私たち個人の所有物を全部、自分の前に置くようにと指示しました。彼らが 没収できるようにです。 私たちの将校の何人かが指輪を渡そうとしなかったため、日本兵は、指を切り落として指輪をもぎ取りました。彼らは、時計であれ何であれ、使えそうな物は全て取り上げました。 見張りのある者は、歯に金の詰め物をしていないか口の中まで覗きました。それで歯をへし折られた仲間も何人かいました。クリスチャンとして育った私には、これはとても耐えられないことでした。 ぐずぐずしていた者もいて、大変な混乱となりました。私たちは暑さにやられ、乾き、飢え、そして病んでいました。彼らが何を言っているのか分かりませんでしたが、銃剣を突きつけられ、とにかく従わなければならないことだけはすぐ分かりました。この場所で彼らは、私たちを兵士と民間人に分けました。遠くの方から、兵士と間違われて息子を連れて行かれた母親たちの泣き声が、聞こえてきました。

私は自分のバッグを置く前に、地面に小さな穴を掘り、持っていたコンパスを埋めて土で覆いました。その上にバッグを置き、彼らが気付かないことを期待しました。私は、自分がもしジャングルに逃げ込まなければならない 事態になったら、方角が分かるようにコンパスを持っていたいと、思ったのです。彼らは気が付かなかったので、立ち上がって行進をスタートするとき、私はそれを拾い戻してポケットに入れることができました。行進し始めると、戦場の 騒音が次第に遠のいていきました。私はそれらの音から逃げ出せて嬉しかったのですが、それが3年半も続くとは、夢にも思いませんでした。

行進を始めた最初の頃、私たちは惨たらしい風景に出くわしましたが、それは先に進むに従いさらに酷くなっていきました。焼け爛れたトラックやバスや軍のトラックがあちこちに散乱していました。膨れ上がったフィリピン兵の死体に、ハエが群がっていました。その臭いは耐えられなく、今でも忘れることができません。

夥しい数の捕虜がいたので、私たちは約40人ごとのグループに編成されました。4人の列が10列続くのです。私はいつでも真ん中にいるようにしていました。そこが一番安全な場所に感じたからです。行進している私たちの傍を、馬に乗った日本人 の見張りが通り過ぎざまに、列の外側の捕虜を刀で打ち据えて行きました。最初の1マイル(1.6キロ)を過ぎた頃には、行進というより、よろよろと歩く一塊の群衆になっていました。

私は残虐さにも恐怖にも慣れていませんでした。こんなことは見たことがなかったのです。こんな風に兵士が扱われるのを見たのは初めてで、教会の日曜学級を一日も休んだことがない男子だった私は、本当に心に深い衝撃を受けました。行進している間、彼らが私たちに何を望んでいるのかを理解するのは、本当に難しいことでした。彼らの言葉を習いたいと思いましたが、それができるような状況ではなかったのです。彼らが要求していることをしないと、ライフル の台尻で頭を殴られました。何を要求されているのかわからず、ぼさっと立っている仲間もいました。彼らは、銃剣で刺されるか、ライフルの台尻や棒など日本兵が身近にもっている何ででも、殴られました。私は残虐さに慣れなければならない、刃向っても死ぬだけだと、自分に言い聞かせました。

私たちは行進を続け、戦場を過ぎて日本軍の陣地の後方に近づいていきました。 行進が続くにつれ、残虐性は増していました。私の前には捕虜の姿が何マイルにも渡って見え、後ろにも同じように捕虜の列が続いていました。やがて道の傍に、日本兵の銃剣や軍刀の犠牲になったアメリカ兵の死体を見るようになりました。死体は膨れ上がって、くろばえに覆われていました。彼らは列について行けなくなり、立ち上がれなかったために、刺し殺されたのです。銃剣で刺されたうえに、首を切り落とされている捕虜もいました。道の横に、藻に覆われ た水牛が水浴びする水溜りがあり、はえが飛び回っていました。何日も水を飲んでいなかった捕虜は、がまんできずに水を飲みに走り、撃たれたり銃剣で刺されました。無事に列に戻った者も、長くはもちませんでした。彼らは結局赤痢とマラリアの犠牲者 になったのです。

ある時は歩いていて、タンクかトラックの轍に、ぺっしゃんこになった血染めの制服だけを見ることがありました。日本軍は、捕虜の死体や倒れてまだ生きている捕虜を 、どけようとしませんでした。彼らは、それらの捕虜が人間の形を留めなくまるまで、何度も何度も轢きつぶしていったのです。

オドネル収容所

オドネル収容所は、ターラックの町の近くにある、古くて使われていない疫病が蔓延するフィリピン軍の駐屯地でした。私がそこに辿り着いたのは、1942年4月20日頃でした。木の柱に支えられたニッパ葺きの古 びて荒れ果てた小屋が立っていました。錆付いた古い鉄条網の塀が収容所を囲み、雑草は腰の丈まで伸び放題でした。混乱の中で私は、行進の途中で一緒だった2人の友人とはぐれてしまい、彼らがその後どうなったのかわかりませんでした。汽車から降りてから、全くの混乱状態だったのです。 日米どちらの軍にも、まとまりも指導者もありませんでした。

収容所に入るや否や、私たちは気をつけをさせられ、再び持ち物を没収されました。その後、収容所長のつねよし大尉が私たちを整列させ、捕虜の掟について演説しました。彼は、左側に大きな軍刀をぶら下げていました。

「お前らは、臆病者である!お前らは自害すべきであった。お前らは犬以下で、生きる価値はない。我々は、お前らの国を滅ぼすまで戦う。お前ら一人一人を戦場で殺すことができなかったことが、悔やまれる。我々は、お前らを捕虜とは看做さない。お前らは、劣等民族の一員であり、我々は、我々が好きなようにお前らを取り扱う。我々は、ジュネーブ条約とは関係がない。お前らが生きようが死のうが、我々の知ったことではない。もしお前らが、いかなる規則でも破るならば、直ちに射殺される。お前らの国は、お前らの名前など覚えてはいない。お前らの家族は、もうお前らのために泣いてなどはいない。お前らは日本の敵だ。お前らは 、じきに戦場で死んだお前らの同僚の方が幸運だったことを思い知るだろう。お前らは、日本兵を見たら敬礼をせねばならず、日本兵が話しかけたらお辞儀をせねばならない。」

演説は何時間も延々と続き、その間彼は日本語でわめき叫び、それを通訳が全部英語に訳して私たちに伝えるのでした。何人もの仲間が、熱気にやられて気を失いました。演説が終わるまで彼らを助けることはできませんでした。その時点で、数千人の捕虜がいたように思います。汽車が捕虜を降ろすと、別のグループが収容所に入り、同じ演説を聞かされました。そこが捕虜にとって最初の終着点でしたので、行進に生き残った者たちは最終的にこの収容所に入ることになったのです。この時点までには、私たちのほどんどが飢え、衰弱しきっており、赤痢とコレラに感染していました。生きた骸骨のように見える者が大勢いました。

私たちの唯一の食糧は、ルガオという腐った古米からつくった水っぽいスープと、その他に何かと交換できるものだけでした。栄養失調を補うビタミンが無かったために脚気が頻発し、死ぬ捕虜もいました。「死ぬは易し、生きるは地獄」という古い言い回しがありますが、それは本当でした。

(オドネル収容所では、約1,600人の米兵と25,000人のフィリピン兵が死亡しました。)

北鮮丸

私は地獄船「北鮮丸」船上で、39日間を過ごすことになりました。その39日間は、私が捕虜として味わった最悪の体験でした。それは最初からこの世の地獄でした。私は他の 約500人の捕虜と一緒に、船の前方貨物船倉に詰め込まれました。船は私たちを乗せる前は石炭を運んでいたので、床は石炭の塵と埃で覆われていました。それは約45フィート(13メートル半)四方くらいの広さでした。私たちは あまりにもぎゅうぎゅう詰めにされたので、体を動かす隙間もない状態でしたが、私たち全員が入るまで日本兵はライフルの台尻や棒で突っつき続けました。それが現実に起こっているとは、信じられませんでした。こんなことが自分に起こり得るはずがないと、考えていました。船倉の中の温度は 耐え難いほどでした。マニラの熱気とあまりのきつさに、気を失ったり、気が狂い始める者もいました。温度は40度以上に感じましたが、換気設備はほとんどありませんでした。まるで、決して目覚めることのない悪夢を見ているようでした。

捕虜はお互いに踏んだり躓いたりし合い、それが既に正気を失った混乱状態に拍車をかけました。誰かの上に寝転ばない限り、横になる場所はないので、立つか ひざまつくしかありませんでした。ぼうっとして、生きている兆候が全くないような者もいました。彼らを見ると、彼らは焦点が定まらないまま見返しているのです。そうかと思うと、わめき叫びそして泣く者もいました。彼らは今生きていたと思ったら、次の瞬間には死んでいました。

米原捕虜収容所での開放

1945年1月に門司に着いたオルテガ氏は、終戦まで、脇浜と米原捕虜収容所で強制労働に就かされました。

私は収容所の中で絵が上手なことで知られていましたので、下級将校のフランク・シャーツは、幾つかの色のパラシュートを使って、旗を作るようにと私に頼みました。収容所には、アメリカ・オーストラリア・イギリス・オランダの捕虜がい て、私はそれぞれの国の旗のデザインを描かなければなりませんでした。そのデザインと材料の布を近くに住む日本人仕立て屋に持って行き、3日で旗を作って欲しいと頼みました。3日目に旗を受け取りに行き、野菜を少しと収容所にあった補給物で支払いました。日本の民間人も私たち同様に飢えていましたので、彼は食糧と補給物をもらい喜んでいました。

私は旗を持ち帰り、竹の棒にくくり付け、門の外側に立てました。旗を掲揚し始めた時に誰かが、「おい、国歌を演奏する楽器がいるよ。」と言いました。それで何人かがまた町に出かけて楽器を調達してきたので、各国の旗を掲揚する毎に、その国の国歌を演奏することができました。それは、それまで見た最も美しい光景の一つでした。自由は、私が心の奥底から大切に思っているものです。3年半にわたって殴打、拷問、そして飢えに耐えた後で、私は泣き続けました。星条旗が風に舞う姿は、本当に美しい光景でした。これらの旗と祖国のために、善良な男女が何人も死んでいったのです。
 

星条旗と他の連合国の旗が誇り高く舞う、解放後の米原収容所
(photo: National Archives)
 

帰還 

オルテガ氏は、1945年10月にテキサス州オースティンの家に帰りました。

タクシーで家に帰り着き、階段を上っていくと、お父さんがそこで私を待っていました。私は近づいて彼を思い切り抱きしめようとしましたが、彼はそれを拒みました。お父さんは、お母さんに最初の抱擁を受けさせたかったのです。彼はいつもの呼び方で「メーナ」と叫びました。「君の息子のアベリートが帰ってきたよ!」私は、お母さんがエプロンで手を拭きながら、ドアに向かって歩いて来るのを見ました。なんて美しい光景なのでしょう。私は泣きながら、長い間お母さんを抱きしめていました。それまでの年月私を守ってくれたのは、お母さんの祈りだったのです。妹は、お母さんが夜ごとに、私が無事に帰ってこれるよう神様に祈っているのを、聞いていたそうです。私のために祈ってくれた素晴らしい家族 がいて、私は本当に幸運でした。家に帰れて本当に嬉しかったです。

息子の後書き

僕はこの本を通して、父の言葉で彼の体験を語ろうとしました。この本で書いたのは、彼が実際に体験したことのほんの一部です。僕は、父が自分の体験を私に語る勇気を示してくれたことを、嬉しく思います。体験を全く語ろうとしない捕虜もいるからです。3年半にもわたる殴打・飢え・拷問は、辛い思い出です。父にとっても、それが時には思い出すのがつらいものであることを、僕は知っています。でも彼は、それらの物語が語られなければならないことも、知っているのです。毎日何百人もの第二次大戦世代が、彼らの体験を語らないまま死んで行きますが、それは僕たちにとって計り知れない損失です。バターンで見捨てられ、忘れられて日本軍に降伏した男たちは、その若い年に似合わないほど類まれな忍耐・勇気・生き残る意思を示しました。このことは、この本で全て説明できることでも、僕たちが理解できることでもありません。彼らは、これまで生きた最も偉大な世代だと思います。これらの男たちが自由のために戦場で払った犠牲を、僕たちは決して忘れてはならないのです。

父が示した計り知れない強さと不屈の精神、逃亡する機会があったにも拘らず守り通した「仲間の兵士を助ける」という神との約束は、彼がどんな人間であるかを物語っています。その後の年月、家族と僕は、彼の強さと導きをいつも頼りにしてきました。深い信仰心が85歳の今でも父を心身ともに強くしていることを、僕は知っています。父は僕たち家族にとって、強さと英知の支えでしたし、これからもそうあり続けるでしょう。

僕自身にとっては、彼は英雄そのものです。もし僕が彼のたった四分の一の人間になれたとしたら、それで光栄です。お父さん、僕たちの国のために尽くしてくれて、有難う。そして、お父さんが僕の英雄だということを、いつも覚えていて下さい。神様は、誰よりも立派な父親を僕に授けてくれました。愛をこめて、お父さん、あなたの息子に生まれて僕は本当に光栄です。
 

アベル F. オルテガ氏と息子のアベル・オルテガ Jr.
 

『Courage on Bataan and Beyond』 の詳細は http://www.powbook.comで読めます。