捕虜と通訳  

小林一雄著   1989年自費出版

著者の承認をえた抜粋:(作成:伊吹由歌子)

 

旧制大阪府立堺中学校 (現・大阪府立三国丘高校)の恩師、英語担任教諭の倉西泰次郎先生(故人)とは運命的な出会いだった。きびしい授業のなかに、文明先進国の英語を通じてさまざまな欧米諸国の生活様式や文化をわかりやすく面白く解説。 私たちは欧米の人たちの暮らしぶりの一端をおぼろげながら描くことができた。1941年春旧制兵庫県立神戸高商 (現・兵庫県立神戸商大)入学。早々、目についたのは課外活動として積極的な活躍をする勉強会グループ・ESS (英会話クラブ)。 一日も欠かさず出席したのはESSだったと記憶している。英語学担当のアメリカ人、ロイ・スミス教授がESSに顔をだし、みっちり英会話を教える。温い口調ながら、日常英語の発音にきびしいスミス教授の教え方は徹底しており、ESSの学生は、校内外をとわず、お互いに終始、英語で話すことを義務づけられていた。十二月八日に端を発した太平洋戦争の真っ只中。〝鬼畜米英が国策として叫ばれ、英語は敵国語として忌避され、外国人の英語教師は、まるでスパイ視されボイコットされた時代。それでも私たちESSクラブ員は、校内を出ると近くの喫茶店などで、英語を使って雑談しながら、お互い、英会話力をつけ合った。道を歩く時にも英語で話し合う、といったぐあいだ。町の一般の人たちからみると、何とも奇妙で、反戦論者がわざと敵国語を使い、反戦をあおっているのでは、とすら感じたに違いない。「米英は敵なんだぜ。英語を使うとはもってのほかや」怒りもあらわに私たちに説教する紳士。「英語をそんなに使っていると憲兵に引っ張られますよ」こわばった表情でそっと注意する愛国婦人会《=1901年創設の婦人団体、出征兵の世話や社会事業に従事》の会長さん。メンバーは、学生気質もあらわに、こうした町の空気に反発して、余計に町の中で英会話を話すことにし、全員がよく繰り出して大きな声でしゃべり合ったものだ。

当時、最上級の三年生は学徒兵《=1943年、学生も兵役につく制度になった》として出陣する者が多かった。ESSのグループからも軍に入隊する者が多く、会話相手が日ごとに少なくなっていった。

旧高商時代のアルバムをめくると、あの太平洋戦争時代の戦意を燃やした学生気質を思い出す。「我、大空に散り大東亜
《=戦時中の呼称、東アジア、東南アジアの周辺》の礎とならん」「安らけき学舎から誠もて、南海の大空へ、日米決闘場へ」「祖国は我等を求む。いざ行かん南の決戦場へ」学舎をあとに巣立つ若者の心情が赤裸々に描かれている。

体の弱かった私は学徒出陣からも除外されたまま卒業し、国策スクールの堺青年学校に教師として勤めた。召集令状を受け、恋人だった妻への感謝の手紙を遺して応召したものの、ここでも痔(じ)疾患が原因の虚弱体質のために、即日、応召を解かれて帰郷した。

一九四四年三月のある日、「若者は何かの形で間接的に国家に奉仕して職につかんと心身ともに再生できなくなる。」と、就職口をもって来て下さったのが、あの中学時代の恩師、倉西先生だった。陸軍中尉のりりしい軍服に身を包んだ倉西先生の姿に驚いたが、次いで出たことばにも驚いた。「捕虜たちの通訳としてこないか?君なら十分、通用するから」 
                                                                  
 恩師の倉西中尉(右端)

当時、敵国だった英米などの軍人が捕虜として日本の本土へ移送されているのを知ったのもこの時だった。大阪にも各地に捕虜が隔離、移送されており、1943年8月から、倉西先生は大阪捕虜収容所多奈川分所(
大阪府泉南郡岬町多奈川)の分所長だったのだ。自信もないまま、恩師・倉西中尉の強い説得にねじふせられたかっこうで同分所へ「民間人通訳」として就職した。二十一歳の時だった。

当時、多奈川分所の捕虜たちはアメリカ軍三百人、オランダ軍六十人。すべてが民間の建設土木会社「飛島組」が軍から請け負っている軍需工場の建設工事に狩り出され、労役に従事していた。私も飛島組の社員として採用され、勤務地は多奈川分所。ここの捕虜は、戦争史のなかでも特筆される、あの、フィリピンの〝バターン死の行進
を体験した将兵、コレヒドール島の生死を分けた激戦のさい捕えられた将兵らで、私の任務は、捕虜管理に当たる収容所事務所と捕虜たちとの連絡係。「相互の意思疎通を円活にして軍需産業に役立つよう仕向けることと、それとなしに捕虜の動静を観察する、いわば情報・宣撫を担当すること」 柔道有段者であった倉西分所長のきびきびした口調と動作には、教壇で見た英語教師の面影は見出せない感じだった。しかし「捕虜として国際法のワクをはずれた接し方はしないように。戦時中とはいえ日本人の持つ文化を損うことにもなるのだから」という静かな口調。その柔和な眼が、私の心を安堵(あんど)させてくれたようだった。

多奈川分所は約一万平方メートルの敷地内に、五十人ぐらいが一棟に起居するバラック小屋十棟、このほかに同じバラック建ての病棟と大きな炊事棟、浴場棟、倉庫、靴修理棟、別に日本軍の管理事務所のある管理棟、唯一か所の衛門と衛兵詰所、大きな防空壕、それに大きなグラウンド。収容所の周囲は高い板囲いでその上に有刺鉄線が高く張りめぐらされ、板囲いの四隅には高い監視塔が設置されていた。各起居棟の一部には将校専用の特別室があり、下士官と兵士は同じ場所。どの棟も真ん中の通路をはさんで左右に、ワラを敷きその上に畳をのせて毛布でごろ寝というような二段ベッドの並ぶ長い部屋だった。冬は薪やオガクズでドラムかんストーブをたき暖をとる。監視護衛は、和歌山の歩兵連隊から約十人が一週間ずつ交代で当たった。管理事務所には倉西分所長のほか庶務、経理担当軍曹二人、衛生兵一人、民間人の通訳二人、傷い軍人上がりの軍属十人が常時、勤めていた。私は毎日、
堺市湊の自宅から配給米やサツマイモを中心にした手弁当を下げ、片道約五十分の通勤をした。アメリカ兵はいずれも一・七五メートルを超える〝大男。小柄な私にはとくにそう思えた。オランダ兵は本国兵ではなく東南アジアのオランダ領兵士で、日本人よりも比較的小さく、皮膚の色も茶褐色、人数も少なかった。

   

捕虜の起居する生活棟などは一定の時間に日本の武装衛兵が見回る。その時は私も同行したが、一人で彼らのバラックに出かけ、一対一で話すこともしばしばだった。しかしある日、アメリカ側の連絡将校、ガルブレイス大尉と雑談中、突然「小林さん、あなたの英語は私らに正しく理解できません。あなたの表情と手ぶりなどから理解する努力をずっとつづけているんです」と遠慮がちにいうではないか。

一瞬、びっくりした。すでにここに来て二週間近くなり、毎朝、朝礼で倉西分所長の指示を全員に通訳し、彼らは指示どおり職務を遂行しているというのに。 「でも小林さんは親切で誠意のある通訳ぶりがわかりましたから、われわれもそれに応えて理解につとめようと、みんなで了解しているんです」というガルブレイス大尉。「友人だから率直に言ったんだ」といいたげな表情だった。「英語の標準語はイングランドの古いしきたりをもつ人びとならいざ知らず、アメリカの庶民、とくに軍隊ではなかなか通用しません。とくにアメリカ軍の特殊な用語、GIスラングがありますからね」とつづけるガルブレイス大尉やブロードウォーター中尉。私はますます赤面する面持ちだった。 私は、自分が理解できない特有のスラングを熱心に彼ら、とくに将校に聞いた。すると彼らは、単語を書き並べて発音、意味のないスラング単語を消去し、正しい英文に仕立て直して解釈する方法を教えてくれた。なるほど、こうすると時間はかかるが、1〇〇%理解できた。いろいろなことを話し合った。

いまでも忘れることのできないのが〝生死観というか、〝捕虜観の違いだった。どのアメリカ兵にも共通する考えがわかった。彼らは捕虜になることを恥とは思わない。「戦場で死ぬよりは生きて捕虜になることが、授った生命に対する真の答礼であり、後日、再び社会のためにその命を役立てることになる」(ガルブレイス大尉)という考えからだという。「生きて虜囚の恥づかしめを受けず」という日本軍が1941年設定の戦陣訓に象徴されるように、わが国では捕虜を恥とする思考が優先してきた。負ければ死しかない。囚われの身は敵の軍門に下ることであり、軍人として許されない行為である、というわけだ。 「捕虜になることは不名誉なことではない。もちろん英雄的なことではないがアクシデントである。不運な兵である」アメリカ版戦陣訓のこのことばば 「脱走が捕虜の義務である」とも述べている。ということは捕虜になっても戦いはつづいているのだ。

フォーブス、ライレイ、ブラウン、ジョンソン、トーマスの各大尉、ファーレル少尉、ディクソン軍曹、グレゴリー曹長彼らとよく話した。

ある夜、当直将校の一人、ジョンソン大尉と話す機会があった。 「日本人は短気な国民だと思う。部下が昼間、労役作業中、よく管理・監督者の民間班長から文句をいわれ、殴られたと不平をいっている。あんなに殴打する国民を見たことがない。だから短気な国民だと思うようになったんだ」 という。捕虜には日本側に対等に闘争する術がない。 口頭による抗議が精いっぱいという、泣き寝入りに近いありさまが、〝彼らの無念さとしてあったことがよくわかる。

別の
夜、捕虜バラックに行った時だった。他の数人の兵士が険悪な表情でまくしたてている。よく聞いてみると、昼間の作業中、理由もなく日本の労役監督から殴られたという。しかも通訳も悪い口調で罵倒(ばとう)したという。こんなことでは指示された労役に服すことはできない」「何とか是正するよう力になってくれ」と、しまいには懇願調だ。
 
労役作業現場の通訳は高木芳一氏(当時三十五歳)。イギリスでの生活が長く、英語はベラベラ。GIスラングも自由に聞き、話すことができるほど、うまかった。彼の話によると、現場の日本人軍属が、休憩時間でもないのにズル休みしているアメリカ兵にビンタを張ったという。その時、高木氏も日本人監督のことば通り、きついことばで、その捕虜を叱りつけた。捕虜にいわせると「こちらの言い分を少しも取りつごうとせず、まるで監督のような振舞いをして侮辱された」-ざっとこんな事情だった。「実情を所長に報告して、本当にそうなら二度と不合理なことの起きないよう善処する措置を進言する」という私のことばに、ようやく一件落着。こんな昼間の所外でのトラブルが、夜になっても尾を引くことが多く、所内の通訳を担当している私にとっては、事情の真相がわからないまま〝トラブル延長戦〟を収拾することが多かった。


その高木通訳。私からみれば冗談をよくいい、笑わせる人だった。捕虜たちも流暢な彼の英語を聞いてよく笑い、話し合っていたのを覚えている。私にも捕虜の扱い方などを教えてくれた。実直な人だった。所外の強制労役作業に付き添う通訳という職務柄、日本側のきびしい労役条件と環境の中で、時には誤解によって捕虜から憎まれることもあったのではないか。
 エド・コイル軍曹ら炊事班は、日用、食料品などを買いに時々、通訳つきで町に出る。(所長獄中日誌より:玉ねぎ、みかんなどの購入費は会社側の寄贈と、捕虜の給料、労役賃金よりの醵出金を以ってせり。捕虜将校たち大いに購入を希望し協力せり。本文P236)店の人との会話で覚えた片言の日本語を使って買い物をするので、少なくとも他の一般捕虜よりは日本語を話すことができた。分所の管理・運営担当の峰本善成・軍曹からも日本語を教えてもらい、かなりうまく話していた。

確かに、彼ら捕虜に対する日本の衛兵、監視兵はいつもきびしい態度、謹厳実直な態度で臨んでいた。バラック棟のアメリカ当番兵が 「異常ありません」ということばを言い遅れると、すかさず 「もっとテキパキと手早く報告せよ」 といったぐあい。ちょっとでも棟内の寝具や書籍類が散らばっていると、厳重な注意を与える。通訳の私がそのまま、正直に伝えるのだが、私は必ず「集団生活を楽しく、規律あるものにするために必要なことだから、お互い、よく理解して暮らしていこう」とつけ加えることを忘れなかった。

慣れてきて、捕虜みんなのロから漏 れてくることばーそれは「捕虜はいつ殺されるかわからないので、毎日が恐しい」ということだった。キャンベル軍医大尉も「捕虜は執行期のわからない死刑囚のようなものだ」といったことがあるが、全捕虜に共通することばだったように思う。私は、捕虜への対応に細心の気配りが必要であることを痛感した。勤務二か月ともなるころから、「日本語を教えて下さい」という。そのうちに捕虜将校たちは、私を〝ファイヤー・ボール(火の玉小僧)のニックネームで呼びはじめた。

アメリカ軍機の爆撃や本土偵察が多くなったころから、収容所でも灯火管制を実施した。

空襲警報発令の時には捕虜も所内に造られた防空壕に待避することになっていたのだが、彼らは容易に防空壕に入ろうとしない。収容所の屋根には大きな文字でP・O・Wと書かれていた。米軍機の姿を見て、戦況有利を信じ、自ら慰め、励ましていたのだろうことは容易に想像できた。

逆境の中で明日の命を憂いながら暮らす捕虜たちにクリスマスに許されたお祝いはせめてもの喜び。そのひとときにユーモアを忘れない彼らの強さ。鬼畜米英を叫ぶ当時の日本人とは大きくかけ離れた彼らの姿を見た思いだった。

私の結婚式の日が「大阪大空襲」の日と重なった。防空壕での新婚初夜、しかも近所の人たちみんなといっしょに。捕虜たちからは祝福された反面、故郷を思い起こさせもした。大阪大空襲を境に戦局は、誰の目にも"敗色"濃いものに映ってきた。日本の各地にアメリカ空軍の偵察機や爆撃機が堂々と飛来するのを、国民は自分たちの眼で確かめている。だから、軍部がどんなに隠蔽しても、一歩一歩、後退を余儀なくさせられ、危機が迫りつつあることは、明らかだった。捕虜たちも、このことは十分、察知し、以前にもまして明るい表情をしているように見えた。
 
三月二十五日、突然、司令部から〝捕虜の移動
"命令が出た。その日のうちに〝捕虜大移動が始まった。大半は敦賀、武生の収容所へ分散、私は残り五十人のアメリカ将兵とともに、兵庫県中部の山間にある
生野町へ移った。三菱鉱業の生野、明延両鉱業所で鉱業物発掘の作業をさせるためである。この生野捕虜収容所には先着の捕虜のほか、他の収容所からやってきた捕虜などアメリカ、イギリス、オーストラリアの各将兵がいっしょだった。

私は、三菱鉱業に籍を置き収容所すぐ近くの社宅に住んだ。妻、尚子、母(父はすでに故人)、姉とその小さな息子二人(姉の夫は勤務の都合で大阪に残留)という、大世帯、まるで疎開である。収容所は、小さな川の向こうに周囲を坂塀と鉄条網で囲い、多奈川と同じようなバラックの建て物郡だった。まわりは樹木に覆われた山、川には一本の小さな橋があるだけ。まったく隔離された場所だった。姫路の師団から衛兵が交代で監視にやってきた。


捕虜たちは、ここから隊列を組んで近くの生野鉱山の坑内採鉱夫として作業に出かける。鉱山に着くと、ヘルメットに電灯をつけショベル片手にカンテラをさげ、リフトに乗って深いタテ坑に下り、そこからさらにヨコにトロッコで進み、発掘作業を始める。 ほとんどの捕虜ははじめて鉱夫として働くものばかり。 馴れない手つきで土を掘り、発破をかけ、進まぬ作業に、坑内の気の荒い日本人の現場監督から怒鳴られ、疲れても定時の休息以外は休めない。捕虜の大半は、収容所に帰って食事とフロを浴びるとぐったり寝るだけ。多奈川での生活に比べ、はるかに作業はきつかったのだろう。 

ここでも捕虜の買い出しが行われ、よく田舎へ遠出した。六、七人のアメリカ軍将校や炊事班のメンバーといっしょに行くのである。春先から初夏へかけては気候もよく、木々の緑や花が咲き私の家族もいっしょに買い出しに行ったこともしばしば。大八車に荷物を載せて、歌を歌いながら帰ったものだ。

いま思うと、多奈川から生野の山奥への突然の移動は、私鉄と国鉄を乗り継いで行ったのだが、捕虜たちには行く先、目的地はいっさい公表せずに出発した。だから、彼らは「本当に移動なんだろうか?」「殺されるんではないか?」と戦々恐々だったかもしれない。ここの捕虜代表、フランクリン・M・フリニオ中佐、マッカーサー司令官のフィリピン軍団参謀) はじめ、親しい将校らから聞いたことばだが、いわば、ミステリー・ツアー、目的地のわからない不安。虜囚の身で、生殺与奪の権をいっさい日本軍に取りあげられているのだから、日常の行動からずれた特別なスケジュールを突然、降って湧いたように命令されると、まず、"わが身の命"に関連して判断し、疑問を抱くのは当然だ。通訳としての私は単にことばの仲介者でなく、いまでは彼らのこの心理を多少なりとも理解して、日本軍の行動に反しない範囲ながら、彼らの心の不安解消と、不自由な中で少しでも〝自由な空気"を吸わせる"ことばと心理の理解者になるべきだ、とつくづく思った。民間籍の私は、軍服の人たちよりも自由に意思表示ができる立場にあり、規制をうけた軍服組のできない部分の代役としての行動は許されるだろうと勝手に解釈するようになった。ここ生野の暮らしは、収容所勤務に慣れたせいもあってか、田舎という環境がそうさせたのか、実にのんびりした心で、和やかな捕虜との交流ができた。姉の小さな二人の息子たちも日が経つにつれ、時々、収容所にやってきて、捕虜の肩ぐるまにのっけてもらい、無邪気に遊ぶ姿がみられるようになった。 

この生野鉱業所のほかに、山一つ隔てた明延鉱業所にも捕虜収容所ができて生野分所の管轄に置かれていた。私はそこの通訳も兼務したがさほど出かけたことはなかった。たまに鉱物搬送用のトロッコに一人で乗り山越えして明延へ出かけた。そんな行き帰りの記憶はあっても、明延の捕虜との思い出はほとんどない。深いつき合いがなかったからだ。ただ、明延といえば、終戦直後に捕虜が解放された当時、同収容所に勤務していた一部の軍属や明延の鉱山に働いていた現場監督の日本人の一部が、一部の捕虜たちによって血みどろに叩きのめされていた悲惨な姿だけが妙に記憶に残っている。

日本国内のあの当時の新聞、ラジオ報道でかきたてる、鬼畜米英、一億玉砕精神のPR。それによって闘魂を燃やされる国民の一人として、私がこんな風に捕虜と暮らしている現実。私はあのころ、矛盾と疑問によく自問自答しながら、戦争の行くえを凝視していたように思う。そして、彼ら捕虜の本心は何だったのか?「執行日のわからぬ死刑囚」と捕虜たちが公言していた最大の恐怖は〝日本の敗戦だったかもしれない。日本が敗戦になると軍当局が彼らを皆殺しにすると信じていたフシがある。島国の日本では脱走すれば自殺行為につながると考えていた彼らにとっては、日本が勝っても負けても生きられないと考えていたのかも知れない。

捕虜と付き合い始めてさまざまな体験をした。私にとっては驚くことばかりの連続だった気がする。あの戦時下、わが本土で、〝鬼畜米英をモットーに一億の民が戦争一本の体制を敷いて頑張っている最中、私と彼ら捕虜との交流経験はまさに貴重な「異文化体験」だった。ある意味では視野が国際的に広がり、別の視点からは強者と弱者の双方の実体験を通じ、人間の本質を垣間見て知ることができた。彼らとの出会いは私の人生観に大きな楔(くさび)を打ち込んでくれたと思っている。大げさな言い方をすれば、私の生い立ち、生活環境の屈折した中で一本筋の通った指標の一つを与えてくれたとも思う。

8月15日、買出しから帰ったら日本兵は誰もいなくなっていた。8月17日、鳴和生野収容所長は捕虜代表フリニオ中佐をよび「日本軍の降伏によりいまから貴方に指揮権を委譲します」と軍刀を渡した。1945年十月初旬、 捕虜たちと別れの日がやってきた。

その一週間前、三菱鉱業生野鉱業所長らが主催する「収容者激励お別れパーティー」が会社の集会ホールで開かれ、所長や幹部、生野警察署幹部、それに生野町役場幹部らが参加、捕虜側は最高責任者、アメリカ陸軍のフリニオ中佐らアメリカ、イギリス、オーストラリア各軍の上級将校代表が招かれた。通訳として私も同席した。

形式通り主催者代表が「長い間、辛い異国の管理下の中で貴重な労務を休むことなく提供していただき、生産に協力下さったことを心から感謝します。おかげで大きな事故もなく、終戦を迎えたことはご同慶の至りです。この終戦で新しい歴史がスタートしたというフレッシュな気持ちを胸に新たな関係めざして私たちも懸命に努力します。どうぞ、おからだに留意され、新しい日本の進路を暖かく見守り、指導されることを望みます。いつまでもお元気で」と長い間の労苦をねぎらい、謝辞を述べた。



彼らを代表してフリニオ中佐は

「お世話になりました。確かに囚われの身はあらゆる面で不自由だったが、そうした中でも心やさしい日本人も少くなく、その人たちのおかげで明日に生きる希望をつないできた。敗者と勝者はいつの世でも隣り合わせで存在しており、神は善意ある者にはいつも味方されている。本日の心暖まるご招待は、これから母国に帰還する私たちの心にいつまでもすばらしい人間関係の一つとして残ることでしょう。新しい関係の絆づくりの貴重な一石になるものと確信し、日本の皆さん方の幸福を心から祈っています」

と答礼の弁。

 

二人のことばは、いま思い出すままに概略を記したものだが、あの時、あの現場では、まだ厳粛で、感傷的にさえなるような印象だった。


戦後の再会

フリニオ中佐とガルブレイス大尉は、日本降伏後の諸問題を予測して小林氏に各自、身分保証文を与えた。

1945年の末、戦犯容疑者として召喚された小林氏は東京へ護送され、GHQ法務部の廊下でばったりフリニオ中佐に会う。2通の保証文を手に室内に消えた中佐は30分で再び現れ、即刻の釈放を彼に告げる。彼のアドヴァイスに従い、翌日には堺市GHQ本部通訳として就職口も決定した。小林氏はその後、貿易に携わり、67年に独立し高丸商会(株)社長、1986年、高丸千里(株)会長となった。1988年の秋、彼はフリニオ大佐を訪ねる。大佐は79歳、重い病を得ていた。

アイリーン夫人のエスコートで屋内へ。一歩はいると背の高い白髪の老人がニコニコと近づいてきた。「やあ ファイーやー・ボール、よく来てくれましたね。」あとは言葉にならない。抱き合ってしばらく立ち尽くすだけだった。夫人、遠方から駆けつけた長女、お二人の手料理で心にしみる会話がつづいた。

大佐は老齢と体調のせいか、多くはしゃべらない。時々、低い声ながら力強く話す。「終戦になって私は二度、訪日したんだよ。二回とも戦犯裁判の証人としてね。君とあのGHQ法務部の廊下で会ってからは全く再会の機会がなかったが、わざわざ来てくれてその夢をかなえることができた。心から感謝します」というフリニオ大佐。

「あのGHQで会ったのが私の戦後の運命の別れ道となったんです。あなたのおかげで戦後の厳しかった道を元気で生きることができました。その節は本当に有難うございました。」と私。「小林さんと私はお互いが命の恩人。。。相互に命を助け合った仲なんだ。本当に有難う」と大佐。この再会は921日付け、ネヴァダ市のthe Union紙で詳しく報道された。 
 

追記

あの総司令部の廊下でフリニオ大佐に出会わなかったら、心に一点のやましいところがないとはいえ、私の運命はどうなっていただろう。的確な証言が得られぬまま容疑をかけられ、こころにもない罪を背負って受刑者の烙印を押された人があるのではないか。幸い私はフリニオ大佐というよき証言者があの場に居合わせたおかげで即刻解放された。天国と地獄の紙一重の差を味わった。それだけに余計に戦犯問題を身近なことして考えせられる。

大阪捕虜収容所多奈川分所と同生野支所で管理運営担当の陸軍軍曹として勤務していた峰本善成さん。
1943年、あるアメリカ兵捕虜の脱走事件が起き、連れ戻し規則に従い営倉入りの処分を行った。次の日、日本軍の衛兵が殴りつけているので制止するため輪のなかにはいり、おまさった。ところが戦後他の捕虜の勘違いで峰本氏は他の兵士に指示して一緒になぐりつけたと証言。そのことばひとつで捕虜虐待の罪でC級戦犯として懲役十年の刑を言い渡された。しかし途中、恩赦により19511月に釈放された。

私とおなじように多奈川の捕虜収容所で民間通訳をしていたTYさん(当時35歳ぐらい)もC級戦犯として裁かれ、刑死した。捕虜虐待が理由だった。まだ半信半疑というのが私の今の本心だ。もし、私が現場通訳であったら。。と思うと運命のいたずらにゾットする。

収容所時代のN軍属の捕虜殴打事件が戦犯容疑の対象となった。その軍属の法廷に証人としてひっばり出されたがまったく知らないことだった。関係のない人でも証人として出廷させたあの軍事法廷のあり方には、疑問を持たざるをえない。

こんなこともあった。ある日、GHQ大阪分室の法務局所属の将校二人が私に会いたいと家にジープを横付けした。戦犯調査の検察側将校だったが、私を確認すると、書類を差し出し「すぐサインしてください。」という。理由もいわずにサインの強制だった。「内容を読ませてくれ」と言っても「何のためのサインか」と尋ねてもいっさいノーコメント。「サンキュウー」と言って風のように去っていった。

いま振り返って、私の身近に起きたあのC級戦犯の裁き方には何かと納得できないことが、さまざまな形で浮かびあがってくる。すべてとはいわないが、「勝てば官軍、負ければ敗軍」このことばは洋の古今東西を問わず通じる歴史の描く事実だと、つくづく思う私の体験だった。

1984727日、元捕虜ロバート・J・ブロードウォーター中尉(当時ジョージア州日米協会専務理事)が来日し私は東京で再会した。峰本氏が戦犯として巣鴨刑務所に服役したことを話すと大きな驚きと悲しみをことばと表情でみせた彼は、2ヶ月後、手紙を送ってきた。「ミネモトさんが、戦後、戦犯裁判で刑を宣告され、長い間、巣鴨プリズンで苦しまれたことを知りました。捕虜虐待ということだそうですが、本当にお気の毒で、残念です。確かにそれは裁判の誤りだと思います。あなたがそんな裁きを受けるようなことをした事実は思い出せません」こんな文章で始まる「ミネモト」さん宛の手紙が同封され、「戦犯という十字架を背負って生きているミネモトさんに早く渡してください」とつけ加えられていた。すぐ新聞記事にしてもらったところ、ミネモトさんと連絡がとれ、弾んだ声で電話がかかってきた。「無実を訴え、説明しようと思ったが言葉が十分に通じず、なかば一方的に有罪を押し付けられたが、神に誓って潔白だった。ブロードウォーターさんに御礼を言いたい。過ぎ去ったことは仕方がないが、無実だったことを証明してくれるアメリカ人が生きておられることは何よりも心強い。仏にあった気持ちです。」

                                                            pp 190, 197, 200, 201より編集

       

                                        元捕虜ブロードウォーター氏と再会