「バターン死の行進」生還者元捕虜の孫が日本訪問

ティモシー C. ルース
著者「
WE VOLUNTEERED. A Biography of Carl Robert Ruse, Survivor of the Bataan Death March and Prisoner of the Japanese, 1942-1945

2010年11月9日

生前の祖父に残念ながら会えなかった息子達のために、彼の伝記を書いていた頃、捕虜だった祖父を知っている誰かと話してみたいと思ったのですが、この10年ほどで、それはほとんど不可能になってしまいました。祖父の体験に興味を覚えたのは、私がまだ小さい頃でしたが、10年前に高校の社会科のプロジェクトとして彼にビデオインタビューをした時、それは私の心に永遠に刻み込まれました。彼はそのたった2年後に亡くなったのです。幸運なことに、彼の体験をさらに学びたいと思えば、元捕虜が書いた数多くの素晴らしい回想録がありますし、博物館や公文書館にも豊富な資料が揃っています。しかし、私が彼の人生について本格的にリサーチを始めた頃までには、(それらのことについて)誰かに直接話を聞ける機会は、大きく失われていたのです。

そんなことも、私が、四日市の石原産業捕虜収容所で彼に食べ物を分け与えてくれた少年を探してみようと、思いついた理由かもしれません。来る日も来る日もご飯一杯と汁だけの食事を与えられ、捕虜だった祖父は、日本の戦争遂行のために精錬所で働きました。彼はこの世の地獄のような数年間を体験しましたが、私は彼の物語を、私の息子達とそして子孫のために記録するため、できるだけのことをしたかったのです。以下は、四日市での彼の思い出の一こまです。

 

工場の近くには、これら(銅製品)が、ロデオ会場ほどもある大きな土手のようにに積み上げられていた。女達が、それらを籠に入れて運んできていた。彼女達は、赤ん坊を背中に背負って働き、真鋳や銅でできた煙草のライター、煙草ケース、ランプ等を運んできた。彼女達は、それらの物品を持ち込み、溶鉱炉に入れるために投げ捨てた。

 

そこで働いていた頃、一人の日本人の老人と、私が見たところ10歳位の日本人の少年がいた。その少年は、ときどき私にそっと食べ物をくれた。彼はおおっぴらにそう振舞うことはできなかったが、少年と私はかなり親しい友人になった。彼自身も食糧は足りなかったはずだが、少年は私にそっと食べ物を分け与えてくれた。

                  
        捕虜時代のルース氏            ルース氏が少年からもらった写真

この少年の親切と思いやりは、とても重要な意味をもっていました。当時食糧が不足していたという理由ばかりでなく、捕虜が得られたカロリーがとても低かったからです。ご飯の配給量が生死を分けたとまでは言えないかもしれませんし、祖父は何とか生き伸びてはいたのですが、37キロまで体重が落ちた祖父にとっては、やはり食べ物は死活問題であったと思います。私は、リサーチの一環として、この少年を探し出し、そして彼から石原産業で働いていた当時の話を聞けないものだろうか、と考えました。それで私は今年の5月に「捕虜:日米の対話」の徳留絹枝さんに連絡をとり、彼女を通して調査が始まったのです。

驚いたことに、少年を探す調査に関する記事が2010年9月11日の日本の新聞に掲載されたのです。(中日新聞記事 9月11日)そしてその後、事態は急速に展開しました。22日には、名古屋の南山中・高校から、6週間後に日本に来ないかという招待を受けました。
 

私と妻のメーガンは2010年11月9日、ワシントンからデトロイトまで2時間、そこで4時間の待ち合わせ、そしてその後12時間半のフライトを経て、到着しました。兄のスティーブは、数日前に既に名古屋に着いていました。飛行場で、熊川重也神父、通訳の方、そして数多くのメールの交換を通して古い友人のように見えた徳留絹枝さんの出迎えを受けました。宿泊先のホテルまで列車に乗り、道中、私は通訳を通して熊川神父ととても意味深い会話を持ちました。名古屋市内に向かう途中、彼は、今回の私の招待を発案し、明日の行事のために一生懸命働いた生徒さんたちについて、説明しました。

熊川重也 神父

この男子高校には、毎年の行事に招待する講演者を選ぶ仕事を任せられた、「さくらの会」という5人の生徒さんのグループがあるのだそうです。私は、招待を受けたことをとても嬉しいとは思いましたが、自分が来たのは自分が何か立派な行為をしたためではなく、祖父がした行為のためであり、自分の物語ではなく彼の物語を語るためにやって来たことを、熊川神父に告げなければなりませんでした。

私達の部屋は38階で、窓が大きく広がっていました。名古屋は清潔で静かな都市で、ホテルは市の中央駅の真上に建てられていました。窓から下を見ると、第二次大戦中もそうであったように、幾つかの路線が駅に入ってきていました。私は、それらを見下ろしながら、フィリピンから数ヶ月間船倉に詰め込まれて連れて来られた祖父が、四日市行きの汽車に乗せられてこれらの路線を通過していったのだなと、考え続けていました。   

2010年11月10日

      
                   
南山中・高校のステンドグラス

今日私は、南山中・高校の千二百人の男子生徒の前で講演しました。生徒の皆さんの規律のよさ、礼儀正しさと丁寧さに、私は非常に印象付けられました。学校側の行き届いた心遣いは、到底言葉で表すことができないほどでした。徳留さんとホテルで一緒に朝食をとった後、私達は学校の先生と通訳の方とロビーで会い、2台のタクシーに乗って学校に向かいました。到着すると、校長と他の数人の先生とのお茶の席に招き入れられました。在名古屋のジョナス・ステユワート米国主席領事も到着し、私達は講演が始まるまで30分ほど語り合いました。

高校部の講演会と式は、生徒さんの楽器演奏と聖書朗読で始まりました。その後、ステユワート米国主席領事の短い挨拶が続きました。そして私が、祖父のバックグランドと捕虜としての体験からなる講演をしました。講演時間は30分あったのですが、通訳に思った以上に時間がかかることに気付き、準備していたノートから削った部分もありました。でも私が語ったことは、戦時中の捕虜の酷い扱いに関して、生徒さん達がこれまで聞いたどんなことよりも詳しい内容であったと、確信します。目を丸くして通訳を聞いている生徒さんもいました。

ティモシールース氏のスピーチ
 


 

講演の後は、学校関係者や他のゲストと純日本食の昼食を頂き、午後は中学部の生徒さん達に講演しました。最後は、何人かの生徒さんたちとお茶を飲みながらとてもよいディスカッションをしましたが、第二次大戦を戦った両側に起こったことに関して、彼らが、それまでよりずっと多面的な見方を持つことができたのではないかと思います。因みに彼らに尋ねたところ、両親と第二次大戦のことを話し合ったことがある生徒は、誰もいませんでした。
 

ホテルに戻ると、私達のストーリーが地元のテレビニュースで放映されていて、日本の人々がめったに聞くことがないこのようなストーリーが報道されたことを、私達は嬉しく思いました。


中京テレビ提供


2010年11月11日(退役軍人の日)

今日は、第二次大戦時に捕虜だった祖父が強制労働を課された、四日市の石原産業の工場をついに訪ねる日です。その日はちょうど退役軍人の日で、私達の訪問はさらに意義深いものとなりました。ここは、祖父が3年半に及ぶ捕虜生活の最後の1年を過ごした場所です。

彼は1944年、フィリピンからの捕虜輸送船の船倉に2ヶ月も閉じ込められた後に、汽車に乗せられてここに到着しました。私達は朝早く名古屋駅発の電車に乗り、彼が66年前に通った同じ路線を旅しながら四日市に向かいました。

駅に着くと、石原産業のロゴが車体に書かれたヴァンが停まっていました。それに乗って、会社が戦時中と変らず所在する、そしてかつて捕虜収容所があった半島に向かいました。私達が会社に着くと、石原産業の十数名の会社役員が待っていて、社内に案内してくれました。二階に上がりお茶を出して頂き、各人が資料の入った封筒をもらいました。会社の誰かが2ヶ月前の記事を読み、私達が探している少年に関して情報を探してくれたことは明らかでした。私達はまた、お互いがそれまで見つけていた当地の地図や写真を比べ合いました。彼らは、私の本の中にあった会社の写真を見て驚き、何人かがそれを見ようと私の周りに集まりました。

石原産業訪問は微妙な問題も含んでいました。というのは、しばらく前に、私企業に強制労働を課せられ賃金を支払われなかった捕虜が、補償を求めるという動きがあったからです。これらの人々にとって残念なことに、アメリカの法廷は、日本との講和条約を理由に、個人が第二次大戦中の日本企業を訴えることを禁じたのです。そのような状況で、訪問が許されたことだけでも、私達は嬉しく思いました。

それでも私は、日本の企業が、彼らに労働を提供した捕虜に謝罪をすることを検討してもよいのではないかと思います。この問題は、最近、駐米日本大使と日本の外務大臣が日本政府を代表して謝罪をした時、大きく前進しましたが、これらの私企業はまだ謝罪していません。そのような謝罪は、まだ生きている元捕虜にとって重要なことです。でも間もなく、謝罪を受け取る人は誰も居なくなり、そのような機会は永久に失われてしまうでしょう。このことは元捕虜にとって屈辱的なだけでなく、自らの歴史の重要な一部に関して責任をとる機会を見失う企業にとっても恥ずべきことだと思います。

このような背景を心に留めていたのですが、私達の訪問は大変に友好的で心温まるものでした。会社からの正式な謝罪はなされませんでしたが、代表者は、このことを「会社の歴史の中で暗い時代」であり、不幸なことであったと表明しました。いずれにせよ、私達は祖父が歩いた地を歩くため、そしてもっと彼について知るためにそこを訪問したのです。一旦会社関係者がそのことを知ってからは、私が最初感じていたであろう緊張感は大幅に和らぎました。私は、彼らが私と同じくらい興奮し、私が自分の歴史を学ぼうとしているのと同じように、自らの歴史を学ぼうとしているのを感じました。

30分ほど話し合った後、私達はヴァンに乗り込み、工場の中をあちこち見て回りました。祖父がいた頃に精錬所に使われ、もしかして彼も働いていたかもしれない、工場内では最も古い建物も見ました。コンクリートは古びて剥げ、幾つかの穴のような部屋の天井は黒く焼けていました。戦時中に金属が荷揚げされた岸壁にも行ってみましたが、この古いコンクリートの埠頭はずっとこの位置にありましたから、この場所こそは、祖父が当時働いていた場所に違いありません。私は、何百回もこの埠頭への門をくぐって働いていたに違いない、37キロの彼の姿を思い描くことができました。そして彼が踏んだかもしれない小石を屈んで拾い、ポケットの中にしのばせました。

この工場で19人の捕虜が、疾病、栄養失調その他の理由で死んだのです。兄のスティーブと私は、亡くなった人々のために建てられた敷地内の慰霊碑に、花を捧げました。

それから私達は、1945年当時の現地地図の座標を使って、かつて砂浜だった地点に行きました。祖父が空を見上げ(米軍の飛行機から)食糧が落ちてくるのを見た場所、そして数年に及んだ捕虜生活を通じて初めて、自分は助かるのだということを知った場所に立てたことは、素晴らしいことでした。彼はここで、生きて帰国できることを知ったのです。


捕虜収容所があり、ルース氏が米軍機に手を振った砂浜
(白黒写真は戦後すぐに米軍機が撮ったもので捕虜収容所が写っている)

石原産業の対応は、とても礼儀正しく感じのよいもので、その地で起こったことを否定しようとするような態度は一切ありませんでした。

その晩、地元のテレビ局のニュースで、私達の訪問の様子が放映されました。少年の写真を見て誰かが気付いてくれないかと期待しましたが、それが起こらなかったとしても、捕虜の物語が日本のテレビで放映されるのを見たことは、嬉しいことでした。

2010年11月12日

今日は、私達の日本での最後の日です。一日中時間があり、あちこちもっと見物できたのですが、それまでの出来事や明日の長いフライトを考え、4時頃ホテルに帰ってきました。するとメッセージが届いていました。少年は自分の亡くなった兄ではないか、と電話してきた人物がいるというのです。前日夕方のニュースを見て、誰かが気付いたのでした。

誰に電話したらよいのか、或いはどうフォローアップしたらよいのか分からず、離日を明日に控えた兄と私は、南山校に行って事態を知るべくタクシーで出かけました。私達は5時頃に学園に到着し、校長の部屋をノックしました。熊川神父が呼ばれました。傍の小さな部屋に移ると、熊川神父は通訳ができる生徒を探しました。彼は私達がメッセージを得たことを知っていたようで、「あなた方に会いたがっている方がいます。その方は6時にあなた方のホテルに来ることになっています。私と一緒に行きましょう。」と言いました。

部屋を出ると、驚いたことに、前日石原産業で一緒だったジャーナリストがまた来ていました。ホテルに着いた時、ある部屋に通されましたが、私達の通訳が呼び戻されていました。その部屋には既に、4-5台のカメラと数人のジャーナリストがいました。私達が腰掛けると、一人の日本人の老人が夫人と一緒に入室し、西脇文雄氏に紹介されました。私達は挨拶を交わし、隣り合って座りました。

そして、熊川神父が通訳を通してその日起こったことを説明しました。「今朝、昨日の新聞を見たという人物から私に伝言がありました。私はクラスがあり、すぐそのメッセージを受け取ることができませんでしたが、 彼はその後また電話してきました。西脇氏のお兄さんは、少年の頃石原産業で働いていたそうです。彼は、お兄さんが精錬所で働きそして捕虜と一緒に働いていると、説明していたのを覚えているそうです。お兄さんは、捕虜に食べ物を与えたと言ったこともあったそうです。」

私はその時点で、その人物は自分が探してきた少年の弟に違いないと殆ど確信しましたが、私達はお兄さんの写真を見たいと思いました。しかし彼はもう生きていないことを知らされました。彼は30歳で亡くなったのだそうです。私達は、彼の写真を持っていないかと尋ねましたが、弟さんが持っていたのは、何歳か(恐らく10歳位)年上になってからの写真だけでした。それは(祖父が貰った写真と)似ているようにも見えましたが、ずいぶん大きくなってからの写真なので確認することは困難でした。
 


西脇夫妻,南山高校「さくらの会」メンバーと

話し合いとインタビューは、2時間以上続きました。私達は少年の名前を知り、彼のことを知れば知るほど、彼こそが祖父を助けた人物のように思えてきました。いずれにせよ、それは素晴らしい体験でした。そして、私達はその人物の未亡人がまだ存命であることを知りました。  

彼女は四日市の山間に住んでいて、名古屋まで出てくるのは難しいということでした。そして私達は、翌日朝のフライトで帰国することになっていたのです。

翌朝、私達はホテルのロビーでお別れの挨拶をしました。彼は近づいてきて、お兄さんの未亡人と話すことができたと、言いました。それから早口で、新聞に出ていた写真を見せられた夫人が自分の夫のものに違いないと言った、と私に告げたのです。

荷物と一緒にタクシーに向かって歩く私達に、彼が最後に言ったのは、これから四日市の家に帰ってお墓に行く、ということでした。彼は、私達と出合ったことをお兄さんに伝えたかったのです。

日本滞在中に出合った全ての人々から受けた親切・寛大さ・手厚いもてなしに、私達は驚き、嬉しく思いました。私は、南山中・高校に招待されて講演したことを名誉に感じ、また南山校が生徒達に、この時期の地元と国の歴史を教えていることを、嬉しく思いました。私には今、出合ったことを誇りに思える多くの日本人の友人がいます。石原産業で出迎えてくれた方々は、忙しい中を快く時間を割いて下さり、彼らの会社を訪問することを許してくれました。従業員の方々は、私達の訪問と(少年を探す)調査に心から関心を抱いて下さり、個人的にも敬意を持って歓迎してくれました。捕虜が失ったものは、とうてい補償することができないほど大きかったと私は信じています。そして、私達がその負債を引き受けていける方法の一つは、将来の世代のために彼らの記憶を敬っていくことだと思います。私は、日本の人々が私達の物語に心からの関心を持ってくれ、そして私達の国の歴史と彼らの歴史に共通する側面を理解してくれたことを、とても嬉しく思いました。

祖父の物語に登場する少年を探す私達の旅は、日本の人々の心からの関心と歓迎がなかったら、これほどの成功には終わらなかったでしょう。彼らは、とても豊かな体験と生涯忘れられない思い出を、可能にしてくれました。そして、その地を歩いたことは、厳しい境遇を耐え抜いた捕虜達へのさらなる感謝の思いを、私に与えてくれたのでした。
 


子供の頃のティモシーと祖父
 

*写真提供:南山中・高校(学校内で撮影されたもの)


石原産業 木村博氏からの手紙

本日は、お忙しい日程の中、弊社にお越し頂き、どうもありがとうございました。また、早速にご丁寧なメールを頂戴し、恐縮しております。 

本日ルースさんご夫妻とお兄様が、おじい様が写真の中で立っておられた場所に行くことを希望され、その場所で感慨深い表情で佇まれていた姿には、私たちも感動致しました。

弊社は本年創立90周年になり、歴史の古さは社員の誇りです。捕虜の方々の強制労働は戦時中とは言え、暗い過去の一つですが、本日のような交流を通じて歴史と向き合うことは、私たちにとっても貴重な経験であり、未来に向けての活力に繋がるものです。こちらこそ、本当にありがとうございました。

少年の消息に関する新しい情報が出てくることを心からお祈り申し上げます。私たちも、出来る範囲で引き続き情報収集に努めます。

お三方にもどうぞよろしくお伝え下さいませ。13日までの日本ご滞在がより良いものになりますように。

石原産業 四日市工場
総務部長  木村 博


* ティモシー ルース氏のブログもご覧下さい。 "We Volunteered."

* ルース氏の四日市訪問は、米ワシントン・ポストでも取り上げられました。 日本語訳