「現地フィリピンでバターン降伏70年と捕虜輸送船犠牲者を覚えるツアー」に参加して
              201245日から13

                      「捕虜 日米の対話」東京代表・伊吹由歌子
 

 
4/8 捕虜輸送船被害者記念碑にて 撮影オジーさん
 

194249日バターンで、7万を越す米比軍将兵が日本軍の捕虜となって70年です。表題の米ツアー(原名:Ghost Soldiers of Bataan & Hellship Memorial Tour to the Philippines70th Anniversary)からお誘いを受け、立教大学博士課程在学で、POW研究会の前川志津さんと参加しました。猛暑期の現地では、捕虜の息子で後述するスティーヴ・クイチンスキーさんによる太平洋戦争史実ガイド、マーシャ夫人の細やかなアテンドを受け、92歳から20歳まで総勢38名が、マニラのアメリカ軍墓地、ビリビッド刑務所(当時捕虜収容所)、ルソン中央部のカバナツアン、オドネル各捕虜収容所跡地、また鴨緑丸など輸送船が水没するスビック湾に2006年建設された輸送船犠牲者記念碑を回りました。 49日、サマット山(1966年マルコス大統領が建立の巨大十字架、ミュージアムなどあり)での例年の式典に参加、比大統領、駐比日本大使、米公使、約3千人の比軍人、遺族など関係者らが参列していました。バターン半島の太平洋戦史に関する歴史的地点を訪ねた後、カマヤ・ポイントからフィリピンの小舟、バンカ2隻でコレヒドール島に渡りました。バンカに乗船してコレヒドール、軍艦島、カバリオの島々を間近にめぐる戦史ガイド、ジープによる希望地への案内など、自由な二日を過ごし、マニラで一行は米大使会見に臨みました。熟練のフィリピン人ガイド、トミー・ソリアさん、力仕事とカメラのオジーさんも同行し、メンバーの疲労度、スケジュール変更などに柔軟な対処、配慮がされました。


/6 カバナツアンにて4人の元捕虜と2人の退役兵:後方にこの収容所で亡くなった
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千の人名を記した壁がみえる


4/10  コレヒドールから参加の元捕虜 レイさんと伊吹

スティーヴさんはつい先ごろ出版された父上の捕虜体験を追った本、「Honor, Courage, Faith: A Corregidor Story (名誉 勇気 信仰:コレヒドールの物語)」の著者です。父上、ウォルター・クイチスキー二等軍曹はコレヒドール(ミルズ要塞)の主砲・ウェイ砲台の砲手でした。マーシャ夫人と共にこの3年間コレヒドールに住込んで、著書のためのリサーチに始まり、たゆみない検証でたえず更新する豊富な情報量で視野の広いガイドとして活躍しています。語りも上手、夫妻ともども心遣いあふれるチームワークで、コレヒドール島を訪れる多種多様な人々に対応します。日本軍の史実にも詳しく、今回、震洋隊の洞窟群、マリンタ・トンネル内の玉砕、戦後に降伏した日本兵らをも語り、フィリピン人英雄記念園(Filipino Heroes Memorial)とともに、日本人平和祈念園 (Japanese Peace Memorial) も訪ねました。後者に展示される写真と碑文を掲載します。


コレヒドールの日本人平和祈念園の写真と碑文

碑文大意は以下の通りです。

「戦時中アジア地域唯一の日本軍墓地だったが戦後はジャングルに埋もれていた。1985年、バターン戦の従軍兵士ゾエス・スキナー氏がオレゴン州のガレージ・セールでカバリオ島が背後に写るこの写真を発見。86年、比政府の許可を受け、日本兵遺骨は荼毘に付され日本に送還された。」

現在跡地には日本軍関係者による数々の碑や観音像が建立されています。戦跡が保存されて歴史記念碑のようなコレヒドール島は戦死者も多く、日米比の元兵士や遺族にとり聖地のような島ですが、コンクリート兵舎群の傷みも激しく、観光業による自然破壊的な観光地化も懸念されています。CFI (Corregidor Foundation Inc.)  http://www.tourism.gov.ph/Pages/Corregidor.aspx
 


4/8  学生によるイースター礼拝
スティーヴ&マーシャ夫妻が後列に並ぶ(それぞれ黄色、赤のシャツ)

今回のツアーは太平洋戦争の米元捕虜5名、退役兵2名、そして7名の捕虜次世代たちが参加して体験、想いをシェアしてくださり、深い学びの体験となりました。ユニークだったのは、6名の米退役兵(元捕虜のひとりは10日コレヒドール島からの参加)のひとりづつに、ミズーリ州オザークス大学の学生2名が付添っていたことです。第2次大戦の戦地を退役兵とともに回るという同大学の教育プロジェクト第10回でした。エッセイにより選抜された12名の学生、捕虜の遺族である学生1名、記録・撮影のクルー2名、看護婦1名が、副学長・フレッド・マリナクス博士に率いられたグループです。同大のブログをご覧ください:http://patriotictravel2012.blogspot.com/

マリナクス副学長は「円卓ディスカッション」というシリーズを企画し、毎回、元捕虜、捕虜次世代などを主役とし、お話をじっくり聴いて質疑する機会を用意してくださいました。


4/6  6名の退役兵とオザーク大プロジェクト・メンバー、  撮影オジーさん

  
4/7 ミュージアムとして整備されたサン・フェルナンド駅舎で学生たちとジムC
さん
4/7オドネル近くのミュージアムで ウェインさんを囲むクリスチンさん、ナースのロリさん、マリアさん

元捕虜の方々のお名前、捕虜となった地、日本での収容所をアルファベット順に紹介します。ジム・コリアーさん、コレヒドール、富山第6・能町:ロバート・(ボブ)・エアハートさん、コレヒドールのカバリオ島(ヒューズ要塞)、大阪の市岡、大阪第6・明延:レイ・ハイムバックさん、ミンダナオ、名古屋第5・四日市、第11岩瀬:ウォレン・ヨルゲンソンさん、コレヒドール、仙台第6花輪:ウェイン・カリンジャーさん(92才)、バターン、福岡第17・大牟田。

退役兵はエド・ナイトさんとローレンス・ネルソンさんで共にコレヒドール解放の戦闘に参加。エドさんは帰国前、土浦の基地にしばらく駐屯、英語の堪能な日本兵の家庭に招かれた体験があります。ローレンスさんは高校教員で教頭を長年勤められました。

子供世代の7人の父上はともに、米比軍将兵として捕虜となり、6名は日本へ輸送され各地収容所で強制労働後、解放され帰還しました。カリー・エイブラハム、ジム・エリクソン、ジョン・ホーグ、スティーヴ・クイチンスキー、リンダ・マクダヴィット、ジャン・トンプソン、マリリン・アラルコン・ワルゼッカさん。マリリンさんの父はバターン死の行進を生き延び、比軍兵は早くに解放されました。学生コリー・エイブラハムさんは孫姪です。エリクソンさんの父上は彼が5才のとき亡くなったが、「決して自分が日本人に偏見を持たないよう育ててくれた」。ジャンさんは2ヶ月前に父を失ったばかりです。感情を抑え、深みには到らない次世代たちでしたが、愛情深くもPTSDに悩み、食物への強いこだわりなど子供の理解を超えた厳しさを見せつつ、子供たちに捕虜体験を語ることの少なかった父について、彼らの多くがこもごも述べたのは、捕虜組織につながり生存者の体験を聴くうちに理解が深まり、気持ちが楽になり「いまは父をより尊敬し愛している」。捕虜の誰かを第二の父と呼ぶ方もあります。学生カリーさんの大おじさん(故人)は、帰還した夜、朝まで捕虜体験を語り明かし、「今後は一切聞いてくれるな」と言われました。「フナツ」にいたとしか分からないので、情報を得たいという願いが示され、帰国後、POW研究会に連絡。笹本妙子さんがGHQ/SCAP調査報告書、ロジャー・マンセル・サイト、現地調査などによりまとめた名古屋第3分所(舩津)のレポート、ライナス・マーロウさんの資料を送ることができました。



/6  元捕虜3名と「子供世代」:
左からスティーヴ、ジャン、ボブ、ジム
C、ジムE、リンダ、ウェイン、孫姪カリー  


/12
元捕虜ウォレンさんとマリリンさん、ドナルドさん

          
          4/8 ジョン・ホーグさん。米比軍人家族としてコ島生まれ、
サント・トマス民間人抑留所。父は大黒丸経由で足尾と日立で強制労働。
4/7  オドネルに残る貨車の前でジム Cさん、サラさん、ブランデン君

非人間的捕虜扱いからヘルシップ(地獄船)とあだ名された輸送船は、すし詰めの暗い船倉でハッチを閉められ、捕虜たちは酸欠、水不足、暑さ、排泄の不自由、飢えに悩み、発狂者もでました。友軍の空爆・魚雷攻撃で命を落とした仲間は2万1千ともいわれ、日本軍が捕虜輸送のマークをつけていたらと遺族は切に思っています。

   
4/8 ヘルシップ記念碑で想いにふける
4/8 ジム・エリクソンさんの輸送船についてのガイドの後、ジムさん、ウォレンさん。撮影オジーさん
 


4/8  ボブさんとティム君

「総じて日本軍は規律正しく良い兵士たちだった」とガイドされた日本軍は、しかし、「生きて俘囚の辱めを受けず」と教育された軍隊でした。生存者たちによる生の残酷な体験を聴くのは辛く、当時の日本軍指導者たちの非人間性と狂信が新たに胸に迫りました。捕虜たちに水や食物を与えようとし殺されたフィリピン人、また自ら危険を冒し捕虜のためを図った日本兵がこもごも語られました。生存者みなさんの暖かい人間性とユーモアのセンスには苦難を乗り越えて身につけられた深さ、確かさがあります。不意にこみあげる涙で途切れる声に、いまだうずく傷が見えます。身近に見た友の理不尽な死、動物以下だったヘルシップの旅、誰もすべてを語ることはできません。日本兵による残酷な仕打ちの体験とともに、親切にされた思い出も語る体験者の配慮が伝わり、日本人としてあの戦争の実態を共有する努力をしなくてはと強く思わされました。

「円卓ディスカッション」で副学長は日本人参加者にも発言の機会を与えられました。「これは個人参加者たちがどういう活動をしておられるか伺う貴重な機会です。」予期しない責任を感謝しつつベストを尽くしました。2000年レスター・テニー博士との出会いで、「太平洋戦争について自分には知らないことがある」と気付いたこと。(テニーさんはバターン死の行進を生き延び、捕虜組織「バターン・コレヒドール防衛米兵の会」最後の会長となった方です。)彼から徳留絹枝さんを紹介され、彼女が2004年バイリンガルのサイト「捕虜 日米の対話」を設立され、以来お手伝いしています。この活動をとおして私は素晴らしい人柄のゆえに心から敬愛する米元捕虜たちとさらに出会いました。この方々の捕虜体験を聴くことはこの戦争での日本軍についての学びでもあり、太平洋の戦地に送られた年上の従兄弟ふたりをめぐる家族内での情報で培われた漠然たる知識を具体化するものでした。日本を支配した偏狭的ナショナリストたちは他国・自国問わず、人権に何の敬意も持ちませんでした。自分が学んだことを伝えるなかで、私の強い願いは日米の一般人がアジア・太平洋戦争の事実をシェアする本当の対話の実現をみたいということです。さらに、日本には良心的な学者たち、アジア太平洋戦争のさまざまな問題に取り組む高齢者、若者とりまぜた活動家たちがいることを私は参加者に知っていただこうと努めました。いまや多くの元兵士たちが語りや映像記録を通して自分のした戦争を正直に次世代に残そうと熱心に活動している現状も伝えました。

    
コ島「日本平和記念園」内の観音像でマリナクス副学長と伊吹
/  式典で篠塚記者とクイチンスキー夫妻


「気は優しくて力持ち」捕虜たちを助け、じっくり話を聴き、歌にダンスに大活躍
左からダニエル、ジョナサン、ブレンダン、ネイサン君たち

こうして充実したツアーが進行する一方、フィリピンで学び、比被害者と日本兵の架け橋になる努力を続けるNPO、ブリッジ・フォー・ピース(BFP http://bridgeforpeace.jp/)会員でマニラ新聞に就職したての篠塚辰則記者が、先輩記者とともに49日サマット山式典を取材し記事にしてくださったのは良いタイミングで、要人たちのスピーチとともに憎しみ、友好こもごもの元フィリピン兵の声を紹介しました。日本人によるWWII関連研究論文は多く、そのいくつかは例えばインターネット・ジャーナル、ジャパン・フォーカスなどで英語配信されています。しかし、より大部のすぐれた研究書を世界と共有する翻訳出版などには資金が必要です。1995年から英連邦元捕虜たちのみが日本に招聘されていましたが、2010年から外務省による米、豪の元捕虜たち招聘が開始されています。今回のツアーもそのひとつでしたが、一般人が出会い、交流し、第2次大戦の体験や知識を共有してゆくなかで相互理解が生まれ、過去を活かすことができると感じます。今回出会えた若い世代たちの明るい未来を心から願い、このツアーのため労してくださったみなさんへの感謝をもってレポートを終わります。     
 


「フィリピンツアーに参加して―歴史を媒介にした人のつながり」

立教大学大学院社会学研究科博士課程 前川志津
 

今年(2012年)は、第二次世界大戦中のフィリピン戦におけるアメリカ軍降伏からちょうど70年目にあたります。今回、1977年に設立された太平洋とヨーロッパの戦地跡をめぐるツアーを専門にしている旅行会社、Valor Toursの企画するバターンおよびコレヒドールでの米比軍降伏70周年を記念するフィリピンツアーに参加してきました。ツアー参加者は38名。

私ともうひとりの日本人参加者の伊吹由歌子さん以外はすべてアメリカからの参加でしたが、そのなかに2011年に「捕虜次世代の会(Descendants Group an Auxiliary of the American Defenders of Bataan & Corregidor)」の総会でお会いしたことのある方々、特に2011年に日本政府の招聘で来日された時の高岡訪問に同行させていただいたジム・コーリアさんがいらっしゃったのは嬉しい驚きでした。コーリアさんは日本人である私にも辛い戦争体験も含めてご自身のことを率直にお話してくださいますが、言語感覚が繊細な方で慎重に言葉を選ばれます。コーリアさんのユーモアに私はいつも笑ってしまうのですが、そんな私を見てコーリアさんも喜んでくださいます。
                                      
ジム・コーリアさんと捕虜の息子で研究者のジム・エリクソンさん

フィリピンへ行くのははじめてでした。フィリピンで第二次世界大戦の歴史がどのように保存されているのか、70周年記念式典がどのようなものなのか、想像もつかないまま日本を出発しました。全体として受けた印象は、バターン・コレヒドールにおける降伏の歴史がフィリピンでは大きな意味をもつということです。バターンが降伏した49日は国民の休日となっていて、町には幟が掲げられていました。

降伏前の最後の戦闘がおこなわれたサマット山での式典には現職・前職のフィリピン大統領のほか駐比米主席公使や駐比日本大使らが出席し、大勢の人々やメディアが集まる盛大なものでした。

  Youtube:(当日の様子)
  70th Year Observance of the Araw ng Kagitingan (the Day of Valor)


しかしながら、そのようなフォーマルな場であるにもかかわらず、式典を形式的なものにおわらせない意図が感じられました。たとえば、バターン・コレヒドールで戦い、その後日本軍の捕虜となった、同じツアーに参加していた元アメリカ兵
4名の席が壇上に設けられ、元兵士への敬意が言葉だけでなく実践的に表現されていました。また、レスリー・バセット米主席公使のスピーチでは、やはり同じツアーに参加していたオザークス大学の学生たちが紹介され、若い世代の取り組みが評価されていたり、卜部敏直日本大使の紹介では、大使の少年時代のフィリピン滞在経験にまで遡って大使がフィリピンに通じておられることについて言及されていました。

         
                               式典会場の様子

卜部大使は過去に対する反省の意を表明されましたが、フィリピンとの関係を紹介されたあとの大使の言葉は無味乾燥なものとはならなかったようです。実際に、米比軍の兵士だった父親をもつツアー参加者の女性は、大使は誠実であるとの感想を述べていました。このように、実際に式典に参加している「人」に焦点をあてることによって、式典が記念する過去の歴史と現在が結びつけられているように感じました。フィリピンの人たちにとっての式典の意義はここにあるのかもしれません。    卜部大使スピーチ全文

私の研究テーマは、歴史を媒介とした人の関係を考えるというものです。ツアーではさまざまな人と人との関係を見ることができました。上述の式典における駐比日本大使と父親が米比軍だった次世代の女性との関係、元米兵とオザークス大の学生たちとの関係、元米兵と子ども世代との関係などです。

そして、私自身も日本人として、研究者として、若い世代として、たくさんの人とつながりました。それは、過去の戦争を媒介としながらも、現在の見過ごされがちな交流からも影響を受ける、とらえがたく、複雑な関係です。たとえば、元捕虜の方たちの体験をバスの中で聞いたあとレストランで一緒に食事をすることによって生まれる関係。その時、箸が用意されているにもかかわらず中華料理をフォークで食べていることをからかわれたのですが(もちろんそれは彼らのユーモアであり、私自身も笑ってしまったのですが)、そこでの関係は、元敵国人と、箸を使うのが不得意な若者という、二種類の日本人がまざりあった私とアメリカの人たちとのひとことでは言い表せないものです。          
                                                  
元捕虜のレイ・ハイムバックさん、ジム・エリクソンさんと

このような関係に自分も身をおきながら、それを相対化して考えることによって捕虜の歴史にかかわる人たちのこともより深く理解できるようになると思います。この点において、歴史的な場所を一緒に訪問しながら参加者の方々と多岐にわたる交流ができた今回のツアーは、私にとって貴重な経験となりました。

                                        
 
                                   一緒に参加した伊吹由歌子さんと