ロバート W.
フィリップス

1920年ミネソタ州 ダルス生まれ

- 米陸軍航空隊 第28爆撃飛行隊、クラーク基地
- 
マレイベレイ、 
  
「鳥取丸」、東京捕虜収容所第二分所(川崎三井)、
 
東京陸軍病院、品川病院、日立収容所

 


捕虜体験記
わが生涯: 重要な一部のミニストーリー


1942 510日、フィリピン群島のミンダナオ島で、私は日本帝国陸軍の捕虜になった。その日、全ての米軍隊は自軍の司令官たちによって、武器をおき日本軍に降伏するよう命令を受けた。当時の階級は一等兵、特技等級は2等機体・発動機整備員であった

それまで数年間、私はフィリピン駐留の28爆撃大隊の一員として、おもにクラーク空軍基地で勤務していたが、戦争勃発の後はミンダナオ島デル・モンテ空軍基地の勤務となっていた。機体および発動機技師として班長および飛行技師だった。

 

 

          1940年           

降伏直後、私たちはキャンプ・カシサンと呼ばれるブキドノン州マレイバレイ付近のフィリピン陸軍の駐留地へ行くよう命じられた。ほとんどの行程は徒歩で行ったのち、同じ目的地へ行くわが軍のトラックに便乗することができた。カシサン収容所ではカモテ(薩摩芋に似た芋)を植える作業班に入れられた。10人の班をつくり、もし一人が逃げようとすれば残りの9人全員が銃殺されると申し渡された。数人のフィリピン兵が逃亡を企てて捕まり、食事のために並んだ私たちの目の前で撃ち殺された。もし逃げれば私たちも同じ運命だぞ、というみせしめらしく、その主張が明白にされたのだった。

19429月下旬に私たちのうち約500人がブゴまたの名、カガヤンの港へ連れてゆかれ、島々をめぐる貨物船でマニラへ輸送された。マニラ港からビリビッド刑務所まで行進した私たちは一週間弱をそこで過ごしたのち、ふたたびマニラ港へ行進し、「鳥取丸」に載せられた。長くて、ひどく危険な日本への旅になるのである。

「鳥取丸」には約2千人の捕虜が積み込まれた。内500人は前部船倉へ、カバナツアンから来た約1500人は後部船倉へ入れられた。あまりにぎっしりと詰め込まれたので、私は身動きもままならなかった。換気口はなく、「鳥取丸」がそれまで、馬の輸送にあたっていたことは明らかだった。次の6週間ほど、クラッカーの小袋と少量の水をあてがわれるのみだった。状況は非人間的で不衛生な状況と食糧、水、換気不足で数人が死んだ。全員が赤痢を発症した。

マニラを出港して二日目ごろ、「鳥取丸」は数発の魚雷攻撃にあったがこれは米軍潜水艦から発射されたものとみえる。そのとき甲板にいた数人の捕虜が2筋の魚雷航跡が「鳥取丸」目がけて近づくのを見たと報告している。船はそれをかわし、大砲による防御攻撃が数回行われた。魚雷は害をあたえることなく通過した。しかしながら、私はできるなら二度と再び船倉には行かないと誓い、その後の航海のあいだは船のウィンチに取り付いていた。

「鳥取丸」はまず台湾の高雄へ行き、それから二回ほど近くのパスカドレ諸島へ往復して、一度は一週間そこに停泊した。高雄港にいるあいだに私たち捕虜は全員が甲板に集められ、消火用のホースで水が浴びせられた。一ヶ月半のうちで、これが最初でただ一度の入浴だった!まもなく「鳥取丸」は艦隊に合流、より寒冷な気候地帯への航海がはじまった。次の停泊地は韓国の都市、釜山で、後部船倉の1,500人は全員が満州へ行くために降ろされた。このときまでには多数の捕虜が不潔と飢餓、そして捕虜仲間全員に蔓延していた絶望感の故に航海途上で亡くなっていた。それから「鳥取丸」は門司を目指し、瀬戸内海を通り最終的に大阪または神戸に到着した。私たちは川崎へゆくため汽車にのせられ、そして川崎駅から6キロを三井捕虜収容所(東京捕虜収容所第二:川崎扇町分所)へ行進したが、その後3年近く、これが私たちほとんどの者の宿舎となった。ときに19421111日であった。

三井捕虜収容所での生活は過酷そのものだった。私たちの衣類は熱帯地用の最小限のものだったが、その冬、ずっと寒い気候にもかかわらずそれ用の衣類はたいして支給されなかった。寒さと僅かな食糧割り当て、質のよくない食べもの、この環境での重労働、「鳥取丸」以来の疾病、これらが原因でその冬、私たちの収容所で多数の死者を出した。私の体重は約60ポンド(約27キロ)ぐらいも減り、たえず下痢、風邪、咳の症状に悩まされていた。看守と日本人の収容所職員は、暴力をふるい、何でもないことで捕虜たちを罰することを病的に楽しみ、私たちの状況をいやがうえにも悲惨にした。

毎日、私たちは作業班を編成して周辺の工場やドックに行進し、そこで一日約十時間の強制労働をさせられた。仕事は川崎周辺の三井倉庫、日本鋼管(製鋼所)、昭和電工(化学工場)、製陶所、その他であった。昼食は収容所から作業現場へ持って行ったが、僅かな量で命を養うには不十分だった。さらに多数がその冬亡くなった。

1943年2月、私は赤痢のために大変弱り、収容所の病棟へ入れられたが、ここにいるあいだは私の食糧は半分にカットされ、それから東京陸軍病院の捕虜用の部屋に搬送された。そこで赤痢のほか肺結核にも冒されていると診断された。そこに6ヶ月いたが相変わらず食糧割り当ては半量で疾病への治療は何も施されなかった。それから1943年の八月、私は新しく建てられた品川という捕虜病院へ移されたが、ここも単にもうひとつの病気の捕虜を入れておく倉庫に過ぎなかった。もし死ねば、その遺骨は白い箱にとっておかれた。もし生きれば、私たちは自分の収容所に戻ることができ、日本の軍需工場でふたたび働くのだった。

私は生きた。1943年の11月、川崎の三井捕虜収容所に連れ戻され、少なくともそこで昔ながらの仲間のもとへ戻ったのである。様々な作業をし、それがB−29の爆撃が東京、川崎、横浜地域を破壊するまでの私の生活だった。1945年の春までに日本の軍需工場は作業停止に追い込まれ、三井収容所の私たちのほとんどは日立近くの別の収容所へ移された。そこでは私たちは銅の精錬所で働いた。その仕事も空爆と米軍艦隊のひとつによる攻撃で停止となった。



2005年の日立鉱山精錬所 写真提供:笹本妙子

ある日のこと、私たちは今日は仕事に行かないと告げられた。「やすめ」が数日続いたのちになってようやく、日本が降伏したことを告げられた。以後はわが米軍の司令官たちが収容所を管理し、米軍爆撃機が食糧、衣類を投下し、私たちは本国送還を待った。終戦の三週間ほど後に私たちは汽車に乗せられて横浜へ行き、そこで米軍第一騎兵隊と第11空挺師団に迎えられた。本国送還はクライマックスとはほど遠い作業だった。横浜ドックのあたりに病院部隊によるシラミ駆除や入浴などの処置のために連れてゆかれたのを覚えている。食物は豊富にあり、本物のベッドで眠り、ほんとのシャワーを浴びた。2、3日すると私たちは沖縄へ空輸され、その後2、3日してマニラへ空輸された。第29補充部隊兵站部が新しい制服を支給し、食べきれないほどのご馳走を振舞った。

マニラからの船旅は3週間かかった。私が軍用船でニューヨークを発っていらい、5年半のあいだには多くのことがあった。サン・フランシスコに着き、やっと私はほっとして家族にまた会うのを楽しむ気持ちになった。

終章 
体験の意味をもとめて:傷を抱えて生きる

元日本軍捕虜として私が仲間とする群れのうち、その人生を傷つけ損なう傷には、一目瞭然、分かるものもある。手や足を失ったもの、やせ衰えた身体、まだ20代というのに老人のようになって帰還した若者など。社会も医学も彼らの問題解決に最善をつくして、その人生をできる限り良くし、経験を無にせず役立てようとその状況から多くを学ぼうとした。私は彼らに脱帽する。彼らの人生は、質においても寿命の点でも、切り詰められてしまった。その払った犠牲は顕彰と名誉に値する。

もっと目立たない傷もある。若かった肉体かこうむった潜在的な害である。少なくとも帰還後しばらくは、多くの者は普通の生活に復帰して生産的な人生を送ったが、それは私たちが若く、回復力があり、他の面では健康だったからだ。過去に体験した飢餓、病気、暴力がその影響を全面的に発揮するには数十年かかるのである。その後になって私どもは肉体的な年齢が自然年齢より数十年も進んでいることを悟った。中年期で我々は老衰症候群をかかえて暮らすことを学んだ。退役軍人局は我々の必要とするところを学び始め、やがてそれに応えるようになった。多くの者がかなり若くして亡くなった。ほとんどの者が実際的な見方をして「アメリカ人であることの付け」に新たな意味づけをした。自己憐憫に陥った者も少数いるし、繁栄を手にした者もいる。これだけの人員がいるところには当然予測できることだが、捕虜だったころに被った潜在的で目立たない影響に立ち向かうやり方には様々な多様性がある。

さらにもうひとつ別の傷が捕虜体験から生還した私たちすべての生活に甚大な効力を与えている。情緒面の傷口である。これは大変に捉えにくいものなので被害を受けた当初には気づかなかった。「傷物商品」として帰郷したとは夢にも思わず、思い起こすと私は、こころからの開放感にひたり、「生還した」と多幸症患者のように幸福感いっぱいだった。だからその後の一生を情緒傷害への対応に追われるとは思いもよらなかった。得意になって考えた、「(汚い言葉を省略)の日本人、このおれを傷めることはできなかったぞ。」現実離れもいいところだった。

私たちの情緒傷害発症は実は戦争勃発と同時におこっていた。自分たちの生命は消耗品と考えられていることをほどなく知ったのだ。実際、ラジオ放送でそのことは告げられたのである。次の44ヶ月、私たちは日本軍、米軍、疾病、また不当な扱いと虐待のあらゆる証拠を消し去る入念な努力などによる攻撃にさらされた。これらの状況は「希望なし」という感情を生んだが、そのこと自体がひとを殺せるのであり、しばしば現実にそうなった。

この稿を書く目的は私たちに傷害を残す多数の残虐行為や、読みを誤った決断などを文書で証明しようというものではない。この傷害の正体を明らかにし、我々、また私がどのようにそれに対処してきたかをお話ししたいと思う。

必要のない傷を負わせたことで日本軍を責めるのは容易いし、ある程度は友軍を責めるのも容易いのだが、事実であれ自分だけの気づきであれ、私たちの受けた傷害の中には自らの誤ちに起因するものがある。これらをおおやけにし、また忠実に直視するのは我々にとって一番苦しいことかも知れない。いくつかを挙げてみよう。@ 戦闘に負ける。フィリピンを日本軍に明け渡したのには多くの理由があり、言い訳もできる。けれど兵士、水夫、海兵隊員としての自己理解と、この降伏とはぴったりそぐわない。軍隊では訓練しないことであり、いかに理屈をつけようと、我々の降伏は多数の失敗の頂点だった。ほかを非難すべき点は多い。しかし、自分に正直になれば自分の役割と自分のしたことを私たちは問うのである。各人、些細な点において落第だった。

A生き延びてしまった罪悪感。ひとには言えないでいる疑問があるに違いない、「自分があの全てを生き抜いた反面、誰々は何故死んだのか?」誰それは日本軍を相手に自分以上に戦ったのだろうか?自分は任務にまともに取り組まず、そのせいで生きているのか?一発ごとに手篭め式のスプリングフィールド銃(通し番号7954)を構えた私は、陣地周辺を爆音をひびかせて低空飛行する飛行機に向けて、何度か発砲の機会がありながら撃たなかったことを覚えている。その飛行機を撃ち落せるか確信がなかったのか、それとも敵に自分の陣地を示したくなかったのだろうか、と私は考える。殺すチャンスがあったのに、「殺人本能」に欠けていたのだろうか。私が発砲していたら戦局の流れは変わっただろうか?誰も撃てとは言わなかったが、誰も、撃つなとは命令しなかった。望遠鏡を逆に構えてのぞく度に、任務遂行の難事を提示するこれらの瞬間を反芻する。個人的な落ち度ということもできる。機会があったとき十分にしっかりと戦わなかったから生きているのだろうか。

このように私たちは疑念の傷を抱えており、それは自分たち自身とわが軍の指導部、そしてまた日本軍の双方に向けられている。通常これらの傷はひとに見せない、とくに軍人仲間には、性格的な弱さと受け取られるかもしれない。愛するものたちには時折信頼関係のなかで自己懐疑を見せることもあるが、これもまれであり自分が失敗をしたと思われないように時を選ぶ。

これからの人生にずっとつきまとうこの情緒的な負担をどう理解するのか。ひとつ明らかなのはこれらの傷を無視し、時がこれらの記憶を薄れさせることを望みつつ何事もなかったかのように暮らすことである。しかしこれは問題解決というより、それを避けるに等しい。遅かれ早かれ、これらの傷はまたしても思い起こされ、新たに現実味を持ってくることになる。

別の方法は、精神衛生の専門家によるセラピーを受けることで、彼らは、我々をまず当初の損傷状態に戻してからもう二度と再びわずらわされずに済むような折り合いをつけようと、古傷のかさぶたはがしの訓練を習得している。この手法の可否は私には判断できないが、これにも踏み込めない。このセッションに参加した私の友人たちはほとんどが、新たな問題に出会っているようなのだ。彼らの受けた情緒傷害がいわば公認されたあと、情緒の安定を保つために彼らはセラピーに依存状態になっている。

情緒障害にたいし、私が好む対処の仕方は当然ながら聖職者として受けた訓練からうまれる。天地創造いらい、人間は十全とはいえない状況に生きるものとなった。その状態を私たちは「罪」といい、神様との関係が壊れている状況である。

これを前提状況として受け入れると、罪と呼ぼうと各人の呼びたいどんな名で呼ぼうと、ひとは自分の欠点を認めることができる。この承認が健全な第一歩となって、捕虜体験中には誰もが間違いをし、神が本来私たちに意図した完全な関係から迷い出てしまったと認識することができる。非難の対象は多く、戦争が各人の最悪面を引き出したのである。

また、積年のうらみや憎悪を抱え込んでいると私たちの魂に害がおよび、魂が腐敗してしまう。一生のあいだ私たちは捕虜体験の囚人になってしまう。これらの憎悪を離なさずにいれば、あれほど憎むべき扱いをした日本軍からすっかり自由になることはできない。赦しがものを言うのはここである。私たち自身が、赦しを必要とする身だからこそ、私たちは赦すように求められている。神は私たちもお互いに相手を怒らせていることを想定し、我々が自分を怒らせた相手を赦すまで私たちに責任をとらせるのだ。

これを人間関係に対する代償要求のアプローチとみなすべきではない。赦しは金銭では買えない。しかし、他人の非を赦すものに、神様が無償で与えてくださる。キリストが私たち人間の救済のためにおのれを与えたことに根ざして私たちの赦しはある。イエスのわざに応えるため私たちに求められるのは他人を赦すことだ。そうすることで、情緒的、肉体的に私たちが負う傷が軽いものになるわけではない。しかし、私たちの傷の原因となった他人を、生涯、憎み続ける重荷から私たちは解放される。イエスは受難の苦しみのなかで、自分を傷つける者たちを赦された。私たちの赦しの代償はすでにカルヴァリの丘の十字架上で支払われた。自分たちに罪を犯すものを私たちが赦せないことがあろうか?

そうせずに居られるか?

ひとの罪過を赦すとは、それをなかったことにするのとは違う。忘れるわけでもなく、忘れるべきでもない。ひとの顔に泥を投げつける子供は恥を知るべきだ。彼に二度も顔に泥を投げさせるなら、私が恥を知るべきだ。その子が二度と汚いまねをしないよう保証するのは私の責任だ。

自分たちが赦されるように、あなたも赦しなさい、しかし、忘れてはいけない。うらみをいだかず、しかし、同じことが起きないようにするため働きなさい。「重荷を負い、苦労しているひとたちよ、皆、私のもとに来なさい。私があなたを元気づけてあげよう。」神さまを私たちの人生の最も傷ついた部分に招きいれ、その完璧な愛によって自分たちの魂にあらたな力をくださるよう、お願いなさい。
 

どうしたら日本は世界の大国になれるか:
彼らの残虐行為の否定は誰のためにもならない

過去70年の歴史をできるうる限り最良の成り行きにしたいとの願いからこの小文を書く。日本は技術的な優秀さに加えて世界に与えられるものを豊かに持っている。しかしながら、この島国を覆う大きな不信のかげゆえに、日本の持つ可能性が開花することは絶対ありえないのではなかろうか。

第二次大戦後の日本は、瓦礫から文字通りの豊かさへという復興の素晴らしい例である。米国がこの復興の同情深く賢いスポンサーであったことを誇りに思い、また冷戦時代、同盟国として日本がいてくれたことは重要だったと認識している。しかしながら、わが国の援助の副産物として、1931年から1945年まで続いた彼らの残虐行為が見過ごされたのである。結局、古い怨恨や罪過を強調していては良い友人にはなれない。それゆえ、国としての真実と正直さは日本でも米国でも妥協の対象となった。何百万という罪なき市民の殺害と、何万という捕虜の死と残虐行為は、最近まで大部分、忘れられていた。

10年か15年ぐらい前、東京の民間テレビ局会社から取材されていたとき、私は個人的な体験話から議論をそらした。日本の視聴者に聞いてほしいメッセージがある、と私は思い、それは当の視聴者自身についてだった。1931年から1945年にしたことを、日本はまた再びするだろう、と私は論じた。今でもなお、私はそう言う。そのインタビューは後味よくない故にけして放映はされなかったことを知っている。私にはそれは理解できるし、そのこと自体、日本は再びやり得る、という私の見方のデモンストレーションとなる。当時の日本は戦後の経済発展上、ひとつの失敗も経験していなかった。すべてが上向きで向上の一途をたどっており、日本人は後継の二世代にわたって逆境にはであったこともなかった。米国はあれはまた起こると保証した。韓国人たちも新しい、ソフトな日本人の世代を知っている。私の親友、韓大尉は自分たちがその世代につけた呼び名を教えてくれた。「アプレ」でフランス語のafterからとった。数世代におよぶ「良い暮らし」でやわになった日本国民は傷つきやすくなり、むち打たれれば容易く激高する。

例えば1970年代の赤軍のような、社会の現状に不満な抵抗分子は地下に潜行して存在し、日本国民が1941年のメンタリテイに操作されてゆくような傷つきやすい状態になるときを待っている、と私は指摘した。厳しい時代になると彼らは一般大衆の共鳴を求めてカードを切り、ところを誤った日本のナショナリズムとプライドに働きかける。このインタビューの3週間あとで、同質の潜伏分子が東京の地下鉄で致死ガス攻撃を行った。自分たちの同胞に対して、である!自分の厳しい評価が実証されたと私は感じた。

著書「忘れない勇気」のなかで徳留絹枝は日本人について「追従者たち」と言っている。これを読んで私は日本国民についての私の厳しい査定が二度も立証されたと思った。

私たち捕虜に与えられた悪意ある待遇の目撃者また被害者のひとりにP・クルテイン医師がいる。クルテイン医師は英国海軍の外科医だが、インド洋でドイツ軍の捕虜となり、収容所にいれるよう日本軍に引き渡された。彼は私たち川崎収容所の医師となった。彼は疾病と栄養失調から収容者の命を救おうとし、また仕事場でおきる外傷の治療をしようとして収容所の正規職員から手ひどく痛めつけられた。彼がより良い食物なり医療品をと収容所の職員に嘆願したとき、彼はひどく殴られ食糧割り当てを減らされた。ジャック・シュワルツ米海軍大尉とともに、「ドク」は私たちの英雄だった。彼は敵を知り、しかも屈服しなかった。何年も後に、妻のオードリーと私がしばらく英国に住んでいたとき、チェルテナムの自宅に彼を訪ねたことがある。自然と、会話は川崎時代のことになったが、長いこと遠いところを見る目つきになった「ドク」は、ゆっくりと悲しげにつぶやいた、「彼らはまたやるぞ。」

「日本はまたやる」というこの気がかりに後押しされ私はこの文章を書く。かつて犯した人間性に反する犯罪への無知または否定、再び行動へと唯々諾々駆り立てられる潜在的な素質、戦後60年の経済的繁栄が生み出した「アプレ」的ひ弱さ、全てが相俟って一触即発、火花を待つほくち箱の状態をつくりだす。

今日、日本は他の世界の大国と肩を並べる地位を求め、相互に是とするものを目指して働き、人間的な国づくりを目指している。その可能性はありながら、1931年から1945年までになされた悪意に満ちた搾取のもたらす信頼と尊敬の欠如が災いし、その実現は無理かもしれない。日本がその悪意の行動をやめた唯一の理由は1945年の敗北にあると世界は知っている。その悪意は敗北さえしなければいまでも存在するのだ。当然の帰結として、機会がありまたは必要となれば、この国は再び南方の隣国にたいし、軍事的な搾取に走るだろう。隣国諸国がその怖れを感じ取ることは責められない。

自己の行為にこころからの悔いを示さない犯罪者のように、日本は間違った行為を犯したことを否定し続けている。当該の時期に関する偽の歴史を永久不朽の歴史として自国民にうそをつき続ける日本を、信頼しない世界は正しい。(注:米国の原爆使用は第2次大戦に終止符をうつためだったことを含む。)それなら、日本が不当にも被害者の役割を演じる国際社会において、正直者と信頼されるにはどうしたらよいのか。彼らを「本気にさせよう。」

日本が世界のリーダーとしての地位に立とうとするなら、不信の影を取り除かねばならない。そのことが真実起こるためには三つのことが必要になる。

当該時期のあらゆる虚偽の歴史の是正をふくみ、心から遺憾の念を表明する。日本の良心がこれをしなくてはならない。

日本が残酷に扱った人々全てに謝ること。これはカタルシス(浄化)作用となり日本をも世界の他の国々にも良い結果をもたらす。未来への日本の本意は名誉あるものであると示し、犠牲者たちからの実際の赦しは彼ら自身にとってよい作用をもたらすだろう。

何らかの補償をすること。過去の悪意への日本の取り組みが本気だと世界に実感させることになる。その形と額については他からの提案にまかせ、それがなされるべきだというのが私のポイントである。

日本が本領を発揮してより良い世界の建設に参加できるよう、これらの言葉が他の人たちのこころに訴えることができるよう、祈るものである。私のこころに、のぼる朝日の息子たちの手で加えられた非人間的な扱いや罵倒への報復や憎しみの余地はない。これを書いたそのままの思いで、私の見方が聞いていただけるように願う。

主にあって、

ロバート・W・ フィリップス神父
聖十字架会
 

最近のロバートW. フィリップス神父



ロバート
W・フィリップス氏の「捕虜体験記」への応答として

関田寛雄(青山学院大学名誉教授、日本基督教団牧師)


私は貴師のこの「体験記」が一つの「ミニストリー」として書かれている事に先ず感銘を受けた。忘れ難い痛苦の経験と、その傷の癒しとしてのキリストの赦しの信仰、及びその経験を通してのかつての敵、日本再建への提言という、この内容は正にカトリック聖職者の「ミニストリー」に他ならないからである。
 

第一部において氏が体験された、恐るべき非人間的な日本軍による捕虜の処遇については、一日本人として心からお詫びを申し上げる。後述するように、「1931年から1945年」という時代は、日本帝国主義によるアジア支配と侵略の絶頂期であり、日本軍の一般兵士は捕虜処遇に関するジュネーブ条約などは全く知らされていなかったし、『戦陣訓』という東条英機(太平洋戦争開戦時の日本の首相・陸軍大臣)の著した、兵への教訓書には、「生きて虜囚の辱めを受けず」と記され、戦場にて捕虜になる事は皇軍兵士として最も恥ずべき事態であり、むしろ死を選ぶことこそ天皇への忠節を表す行為であるという思想が徹底的に叩き込まれていたのである。

当然ながらその思想は、敵国兵捕虜への処遇に反映したのであった。当時の日本兵の野獣的態度の原因はそこにあったと言えよう。また明治天皇の著作である『軍人勅諭』には、「上官の命令は朕の命令と心得うるべし」との一文があり、軍隊の階級統制の原理となっていた故に、絶対権力を握っている上官の、捕虜虐待の命令に下級兵士は服従せざるを得ず、その実行行為の徹底こそが、上官への忠誠、ひいては天皇への忠誠の証となったのであるから、不可解極まる残酷な捕虜への処遇の原因はそこにもあったのである。要するに当時の「大日本帝国」における権力構造の中心には天皇があり、天皇への絶対的服従が殆どの日本人のエトスとなっていたのであった。「1931年から1945年まで」のみならず、19世紀末からのアジア侵略を進めた日本の歴史の担い手は天皇であり、その天皇に忠節を誓い続けた陸海軍及び指導者たちであった。

この点に関して敢えて言うならば、連合軍司令長官マッカーサー元帥の日本占領における最大の失敗は、この天皇ヒロヒトを裁くことなくむしろ天皇制を維持温存したことにある。ここにこそ、貴師の警戒する「日本はまたやるぞ」との予想の根拠があると言えよう。

次に「終章」において貴師の負われた苦悩の深さは言語に絶するものがあると実感した。今日精神医学で言われるPTSDという事態ではなかろうか。「体験の意味を求めて―傷を抱えて生きる」という事は貴師とその同僚の方々の今、尚引きずらざるを得ない重い傷であろう。それは若くして老い果て、「傷物商品」というレッテルを貼られ、「情緒障害」を発症し、数十年という重圧となって性格も変えてしまうことであろう。心からの同情を禁じ得ないものである。敗戦の結果捕虜になったという屈辱感、仲間の死を見殺しにして自分は生き残ってしまったという罪悪感、加うるに日本兵から人間扱いされない日常における絶望感。それらがどんなに貴師たちを苦しめて来たか、は想像を超えたものであり、日本人として深く責任を痛感する所である。

しかし貴師はその中から聖職者としての道を選び、その中でキリストの赦しに出合い、赦された者として敵たる日本兵を赦すという事によって、悪の過去と断絶し自由になり、自己自身を回復して行かれた事を知らされた。それはまことに、私たちに感動を与える出来事である。「主の祈り」の第五の祈りは正にキリスト者間のみならず、全ての国際紛争、民族対立、階級憎悪を克服して新しい歴史を創造していく唯一の道ではないだろうか。「我らに罪を犯すものを我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」言うまでもなく「赦す」ことは「忘れる」ことではない。むしろ記憶し続けることによって、「赦し」の尊い意味を維持することができるのであり、それは貴師の語られる通りである。

最後にその事と関連して貴師は「どうしたら日本は世界の大国になれるか彼らの残虐行為の否定は誰のためにもならない」と語られている。その通りである。ただ日本は「世界の大国になる」必要は全くないのであって、世界の諸国と友情と信頼で結ばれる国になりさえすればよいのである。しかしそのためには、第二次大戦以前からのアジア諸国侵略の「罪」を悔い改め、戦時中における捕虜虐待、住民の強制連行及び重労働、更には「従軍慰安婦」に代表される現地住民への諸悪について、その責任を認め、しかるべき補償をいち早くなすべきである。被害者の高齢化と死亡を思うとき、この遅怠は第二の戦争犯罪であると言えよう。それ故この文章の最後に貴師が述べられた3つの提案、即ち、虚偽の歴史の是正、残虐な取り扱いを行った事への悔い改めと謝罪、そして被害者に対する妥当な補償、は全く同感する所である。

ただ問題は現在の日本の政府の政策と、それに同調する多くの国民の意識の問題である。これは何よりも日本人自身の責任であり、良心と知恵ある判断を持つ日本人(例えそれがどんなに少数であっても)の課題である。私の所属する日本基督教団は1967年復活節において「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」という宣言を公にし、その事に基づいて正に貴師の言う3つの課題を宣教方針の大きな要素として実践しつつあり、アジア諸国との和解と共生の道を歩むべく努力している。また毎年8月第一土曜日には、横浜市保土ヶ谷にある 英連邦戦死者墓地で、全ての連合軍捕虜のために追悼礼拝を続け、世界の平和を祈り求めている。その事は現在の日本の政府と多くの国民が、非戦平和の国へと再生するための祈りをも意味している事はいうまでもない。貴師の「ミニストリー」に永遠なる神の祝福があるように。