エドウィンラムジー

1917年イリノイ州生まれ


米陸軍
フィリピンスカウト第26騎馬隊

バターン死の行進から逃亡してゲリラを指揮する

 

エドウィン・プライス・ラムジー退役中佐は、フィリピンスカウト第26騎馬隊の中尉として、1941年の夏にフィリピンに赴任しました。日本軍のフィリピン攻撃の数週間後、彼は、米軍の歴史上最後となる騎馬隊の突撃を、指揮しました。

1942年4月9日、バターン半島が陥落したとき、彼は逃亡し、フィリピン人のレジスタンスに加わりました。最終的にラムジー少佐(終戦時は少佐)は、マッカーサー将軍と交信しながら、4万人に及ぶゲリラを統率する指揮官となりました。彼がマッカーサーに送信した諜報は、将軍が約束どおりフィリピンに帰ってくる準備に 役立ちました。

ラムジー中佐は1990年、戦争中の体験を綴った回想録Lieutenant Ramsey's War: From Horse Soldier to Guerrilla Commander (co-authored with Stephen J. Rivele) を出版しています。以下はその抜粋です。

逃亡

それは困難な瞬間だった。この数週間ともに戦い窮乏を共にした我々は、強い絆で結ばれていた。我々が知る限り、自分たちが第26騎馬隊の唯一の生き残りで、敵は我々を打ち負かしてはいなかった。今、自発的にそしてごく僅かな希望とともに、我々はフィリピンを脱出し、戦場に戻ろうとしている。私たちは握手し、肩を叩き合い、お互いの幸運を祈った。そして「オーストラリアで会おう」と言い合った。



 
            

                   ラムジー中尉の逃亡路

私が山を降りたのは1942年5月9日、私の25歳の誕生日だった。Timbo の村(地図参照)に辿り着いて聞いた最初のニュースは、3日前にコレヒドールが陥落し、ウエインライト将軍と彼の指揮下にあった将兵が捕虜になったということだった。日本軍はフィリピンを50日で制圧する計画だったが、我々は6ヶ月持ちこたえたのだ。

-ストラリアに逃亡するという当初の計画を捨て、ラムジー中尉とウエストポイント陸軍士官学校卒業生でラムジー中尉より2歳上のジョー・バーカー大尉は、レジスタンスを組織するためにマッカーサーがバターンから送り出していたクロード・ソープ大佐のゲリラ部隊に合流する。

戦争反逆者

我々の集団は、日本軍を苦しめるために何かをしたいと願う男女から構成され、我々は彼らにできる限りの軍事訓練を施した。しかし訓練のための武器は殆ど無く、装備はさらに足りなかった。我々の兵士は誰も制服を持っておらず、多くの者はずたずたのズボンとボロボロのシャツといった手作りの服をまとい、殆どの者が裸足で訓練と教練を受けたのだった。それは真の意味で、愛国心と固い抵抗の意思に支えられた農夫の軍隊であった。



バーカーと私は、我々の運動のためには、マニラに組織を作ることが不可欠であることを知っていた。首都に組織を持つことは、我々に信望を与えるし、我々の諜報員を、日本占領軍の正に心臓部に送り込めるのだ。それで我々は、プロパガンダ将校である
Alejandro Santos Fausto Alberto をマニラに送り返し、その地に既に存在するレジスタンスグループを組織化し、我々の指揮下に合流させることにした。

それは危険な仕事だったが、数週間もしないうちににSantos Alberto が、マニラ市内に諜報のネットワークが作られ、その中には日本の行政府に雇われている市民も多く含まれていることを、報告した。

これらの勇気ある男女は間もなく、フィリピン内外の日本軍の規模、組織、軍事計画などに関して、価値ある情報を我々に流してくれるようになった。
 
                                
                                                            
 ラムジー中尉と Alberto (右) and Santos

我々は、捕われた我々の将校たちが、マニラのサンチャゴ要塞の牢獄に収監されていることを知ったが、その牢獄は悪名高い拷問部屋となっていた。我々のマニラ諜報員は時おり、彼らの苦しみの様子を報告して来たが、その報告は残忍なものであった。

牢獄の周辺で働く諜報員は、それらの拷問が中世時代の代物であると、我々に告げた。ゲリラと疑われた者は、火のついたマッチを爪の下に押し込まれ、熱した鉄棒を恥部に押し付けられた。女性は特に、レイプや体の一部切断などの残酷な仕打ちを受けた。最も陰湿なのは、日本軍が水療法と呼ぶ拷問であった。被害者の喉にホースが強引に入れられ、胃袋がグロテスクに膨れ上がるまで水が流し込まれる。そして監視兵が囚人が自白するか、胃袋が破裂するまで、腹を蹴って踏んづけるのだ。

日本軍にとってレジスタンスは、軍事的問題だけではなく、彼らのプライドを公然と侮辱するものであり、耐え難いほど面子を台無しにするものだった。ゲリラを徹底的に掃討する総力戦が開始され、それを成功させる責任は、日本軍諜報部の長である馬場将軍に課された。

馬場は1943年1月、マニラの長浜大佐の憲兵隊本部に着任し、ゲリラ掃討戦作戦を計画した。その中心となる要素は、密告者・襲撃・報酬そして拷問だった。密告者は、あらゆる場所でいかなる手段を使ってでも集められた。

バーカー大尉の逮捕

一方バーカー大尉は、マニラを出て市の東北にある人里離れた丘陵地帯に向かった。翌朝にはゲリラ部隊の本部がある Porac に戻るつもりで、諜報員の一人の家に泊まった。夜明けに、武器を持った多勢の憲兵隊員が家を取り囲んだ。ジョーは完全に逃げ道を塞がれた。彼らは家を襲撃し、寝ていた彼を逮捕したのだった。

彼はサンチャゴ要塞の牢獄に連行され、既に捕まってその汚い牢獄にいたThorpe Santos そして他の十数名に加わった。牢屋のまわりに配置された我々の諜報員は、彼が絶え間なく拷問されていること、そして彼の果敢な抵抗の様子が既にマニラ中に広まっていることを、伝えてきた。

今や私は、1万人以上の男女から成るルソンゲリラ軍の唯一の指揮官となり、ルソン島でまだ捕まっていない数少ないアメリカ人ゲリラ指揮官の一人となった。そのような状況で、私は馬場が探す一番のお尋ね者となったのだ。

マッカーサーからの最初のメッセージ

1944年の初め、ラムジー少佐は、マッカーサーの本部と直接交信を可能とするラジオを手に入れるため、500キロ近くの距離を移動しミンドロ島に向かった。ラジオを入手することはできなかったが、彼はそこで潜水艦でオーストラリアに脱出する機会を与えられる。彼はその申し出を断った。

「お断りしますと、言って下さい。」と私は答えた。
Ruffy (ミンドロ島のゲリラ指揮官)は、笑顔で頷いた。「これは君に見せるべきではないんだが」と言いながら、彼は折りたたんだ一枚の紙きれを手渡した。「君が(オーストラリアに)行くと決心した場合に見せるようにと、命じられていたんだ。」

私はそれを開いて読んだ。それはオーストラリアからのラジオ信号で、私に宛てたものだった。

「マッカーサーからラムジーへ」と書き始められていた。「ルソンに戻り、その地でレジスタンス軍を指揮することを請う。」 それはマッカーサー自身により署名されていた。

外界から私への最初の交信が、マッカーサーその人から来ていたのだ。私は深く感動した。彼は私の活動を知っていて、明らかにそれに価値を見出していたのだ。何ヶ月もにわたり、そして多くの密使によって発信された情報の幾ばくかは届いていたのだ。それを続けたこと、そして諦めなかったことは、正しかったのだ。それらの情報に何らかの意味があったことを、マッカーサーは断言していた。そして、それは継続されなければならなかった。

バーカー大尉の処刑

ルソンに帰ったラムジー少佐は、バターンから共に逃亡しゲリラ戦を指揮したバーカー大尉が、日本軍により処刑されたことを知る。

1943年12月、彼らはサンチャゴ牢獄の房から、マニラ市内の旧中国墓地に連れ出された。どしゃぶりの雨の中で彼らは自分の墓穴を掘らされ、そしてその上に跪くよう命じられた。そして一人一人、首を刎ねられたのだった。

処刑は、彼らが一年もの長きに渡って沈黙の中で耐えた残酷な苦しみに終止符を打った。彼らの誰一人として、組織を裏切ることはなかった。彼らが捕われたことによって失われた者はいなかった。彼らのうち誰もが、私の死につながるような情報や名前を自白できたのだから、私自身が生きているということが、彼らの不屈の勇気の証拠であった。彼らは兵士のように振る舞い、殉教者のように死んでいったのだ。

バーカーが捕まったという知らせを一年前に聞いた瞬間から、彼が生き延びる可能性がないことは知っていたが、彼が死んだという事実に私の胸は痛んだ。彼を偲び喪失感を覚えたが、いつまでも悲しみに浸ってはいられなかった。悲しんでなどいるときではなかった。彼は既に命を落した2,500人のゲリラ兵の一人に過ぎなかった。彼は他の者より私と親しく、彼の面影は他の者よりはっきりと私の心の中に刻まれていたが、私は、死んでいった多くの者たちと共に彼を記憶することにした。

ジョーは逝ってしまった。彼に再び会うことはないが、彼と一緒に作り上げたゲリラ闘争はまだ生きている。私は装備を整え前進した。今や私は3万8千人の男女を指揮下に置いていたが、しばらく私は留守をしていた。闘いに戻る時がきたのだ。

交信

1944年6月、ラムジー少佐はついにラジオを入手し、マッカーサーと直接交信ができるようになった。間もなく、彼らの間を頻繁にメッセージが行きかうようになる。

「マッカーサーからラムジーへ」 シグナルはそのように始まっていた。そして彼は、我々の部隊の人員数、彼らへの支払い、武器、訓練状態などに関して、詳細に尋ねるのだった。私は同様に、「ラムジーからマッカーサーへ」 と返事をした。

マッカーサーは近づいてきていた。開放は近づいてきていた。私は、彼が求める限りの情報を送りながら、私たちの間の交信を活気ある生き生きしたものとするよう、懸命に努めた。

              マッカーサーから届いた交信の一つを読むラムジー中佐 
            Video clip of Col. Ramsey showing one of the messages from MacArthur


日本軍の襲撃

1944年10月、ラムジー少佐は麻酔なしで急性盲腸炎の手術を受けた。日本軍が彼の基地を襲撃したとき、彼の体力はまだ充分に回復していなかった。

 1945年1月2日、ついに彼らに見つかった。ラジオを使った三角測量と捕えたゲリラ諜報員から拷問で聞き出した情報を手掛かりに、馬場はBalagbag の上の我々の場所を突き止めたのだ。山の麓を探し回るために送られた哨戒隊がやみくもにジャングルに進入してくるのを、我々は数日間見ていた。すると命令もなくネグリト(原住民)が、我々の基地の裏の日本軍の電話線を切断し、哨戒隊は我々に集中してきた。その中の一人が滝のところまで近づいてきたとき、ジミー・キャリントン(ビリビッド刑務所から脱出した後ゲリラに加わった海兵隊員)が、マシンガンを撃ち始めた。

その日一日と次の日、日本軍は岩のところに足場を固め攻撃を続けてきた。迫撃砲の砲弾が基地の端に着弾し、それから上の崖に別のが落ちた。彼らは我々の射程を探っており、彼らの歩兵は既に我々の方に向かって坂を登り始めていた。私は周囲に沿って警戒部隊を配置して応戦させたが、ほどなく我々は苦戦を強いられるようになった。

次の日の夜明け、日本軍は攻撃を再開した。今度は彼らは、歩兵がじりじりと前進する中、迫撃砲を撃ってきた。私はキャリントンの弾薬が少なくなってきていることを知っていた。それでCadizon (ラムジー少佐のボディガード)の力を借り、状況を見るために滝のところまで急いだ。

「こんなもんですよ。」キャリントンは響き渡る銃砲の中で叫んだ。
「あとどのくらい持ちこたえられるか?」
「どのくらい必要なんですか?」
「明日の朝4時までだ。できるか?」
「もちろんですよ。」彼は、砲弾が我々の頭上のやしの木のてっぺんを吹っ飛ばす中、ゆっくりと答えた。「おやすい御用ですよ。」

私はCadizon の肩を借りて基地に戻りながら、もしキャリントンがそれぐらい持ちこたえられたら、ちょっとした奇跡だと考えていた。私はスタッフを集め、基地から避難するよう命じた。


         

            ジェームス・キャリントン(中央)とフィリピンゲリラ

     キャリントン氏は最近亡くなりました。詳細は以下の記事ご覧下さい。

           WWII veteran reunited with man who aided his escape from Japanese prison
          
    
Days after reunion, WWII vet dies at 88

上陸

1月8日、我々はタラの近くの臨時基地に落ち着き、ラジオも再び機能し始めた。その午後、私はマッカーサーから緊急のメッセージを受け取った。

マッカーサーからラムジーへ。 直ちに、敵の通信網、鉄道線、車両、トラック、分散して隠されている航空機、弾薬、石油、軍需品集積場を破壊せよ。敵に対して、最大限の破壊をもたらせ。

それは(米軍の)上陸を意味していた。我々全員がそのために働き待ち望んできた瞬間が訪れたのだ。1945年1月9日の朝、マッカーサーの部隊は、日本軍が4年前に上陸したリンガエン湾に到着した。そして1月31日、私はタラの近くの我々の基地で、マッカーサーからのメッセージを受け取った。

ラムジーへ。 ルソンの全てのゲリラ軍はウォルター・クルーガー中将が指揮する第6軍の配下に入る。

メッセージにはクルーガーの通信番号も書かれていて、ラジオで彼に報告するよう指示されていた。直ちに私はそれに従った。

ラムジーからクルーガーへ。 私は通信した。「本日司令官から受け取った命令により、報告しております。」

ゲリラ指揮官として日本軍陣地内で3年近くを過ごした後、私は正式に戦闘に戻り、そして米陸軍の将校に復帰したのだった。

出会い

ターラック郡のSan Miguel にあるマッカーサー司令本部からラジオ交信があったのは、私がMeycauayan の本部に移って3日後のことだった。「ボスがすぐ君に会いたいそうだ」とGuillermo が伝えた。

私は、自分がマッカーサーに個人的に報告する事態は予想していなかったので、呼ばれたことに驚いた。伝達者やラジオを通じた3年間のやりとりで、私は、フィリピン人が彼に抱く崇拝にも近い思いを共有するようになっていた。帰ってくるという彼の約束が、フィリピンの人々を支えたのと同様に私を支えてきたし、彼らと同じように、私も彼がその約束を実現する日のために生きてきた。しかし、自分がいつの日か実際に彼に会うだろうとは、考えたこともなかった。

ラムジー少佐がマッカーサーの司令本部に出頭したとき、そこの司令官がオクラホマ陸軍士官学校時代に彼の教官だったグレン・フィンレイ大佐であることを発見して、彼は驚く。

ドアが魔法のように開き、フィンレイは私の背中を叩きながら、そこに通した。広い部屋の向こうから声がした。「おう、君がラムジーか。」「マッカーサー将軍。」私は答えた。「お会いできて光栄です。」「いや少佐、」彼は言い返した。「光栄なのは、私の方だ。」

私は彼に感謝の言葉をいいかけたが、彼はそれを遮った。「ラムジー、君が私のためにしてくれたことに比べれば、自分がしたことは小さなことだ。君は、私がフィリピンの人々にした約束を果たすのを助けてくれた。恩を感じているのは私だ。そしてルソンに上陸した一人一人の米兵たちだよ。」

衰弱で倒れる

5月10日、28歳の誕生日の翌日、40キロまで痩せ細ったラムジー少佐は衰弱から倒れ、数週間後に再び倒れた。

何もできなくなるということは、自分にとって不慣れで醜悪なことだった。病院のベッドに来る日も来る日も横になって、なぜこんなに弱ってしまったのか、考えていた。自分のことが何もできなくて、活力もやる気もなく、恥さえないのだ。他の全ての人々に世話をしてもらい、その親切を、絶え間ない悲しみ襲われる自分が得た当然の権利のように、受け取った。私の中に心は残っていなかった。何事にも感動しなかった。私はたった一人ぼっちで、世界中で一番寂しい人間だった。寂しさそのものだった。

それにも拘らず、私の心の奥底には小さいながらもはっきりとした希望の灯りがあった。皆が安全なのだ、と私は自分に言い聞かせた。もう誰も殺されない、誰も危険に晒されない、もう襲撃もない。集落に隠れなくてもいいし、警戒もいらない。自分は、彼ら全員をここまで引っ張ってきた。この絶望を甘受すべきなのだ。この3年間、私の全力をかけて、何千人もの死と、自分が正面から向かい合えないほどの恐怖と喪失のプレッシャーの下で頑張ってきた。私はそれら全てのことを、少しずつ吸収していった。そして今やそれは私を荒廃させていた。

これはいったいどんな戦争だったのだろう、と私は考えた。何がルールで、誰が敵で、自分は如何にして勝てたのか。私の戦争にはたくさんの戦線があった。今自分が面しているのはどの戦線なのか。

私は、惨めな自分の体と、ずたずたになった精神状態を見つめた。そして、これは戦争の始まりで終わりではない、と理解したのだった。それは、自分自身を取り戻すための、体験したことから自分の存在を再確認するための、無意味だった戦争そのものを理解するための、戦争だった。

私は混乱し、衰弱して倒れ、ばらばらになってしまっていた。しかし、降服はしていなかった。自分は、バターンで降服しなかったし、疫病や馬場将軍や戦友の死のつらい思い出にも負けなかった。フィリピン人が苦悩と死の恐怖から開放されるために戦うのを助けた。今度は、自分自身の解放のために戦わなければならなかった。

1945年6月13日、マッカーサーはラムジー少佐を中佐に昇進させ、Distinguished Service Cross殊勲十字章 ) を授けた。数日後ラムジー中佐は、フィリピンを後にしてアメリカに帰国した。

                    

        Distinguished Service Cross を授けられたラムジー中佐(左)


ラムジー中佐との対話

徳留絹枝

戦後45年を経た1990年に回想録を出版なさったのですね。なぜ戦争中の体験を書いてみようと思われたのですか。

原稿は1945年の12月に仕上がっていたのですが、出版社と合意できなくてずっと棚上げにしていたのです。1988年になって、プロのライターである Stephen Rivele 氏と共著で書き直しました。そして1990年の12月に Knightsbridge 社から初版が出ました。

バターン攻防戦とその後の3年半を敵陣で生き抜いた私の戦争体験は、大変ユニークなものです。本に書いたことに特に付け加えることはありませんが、戦後長い間、PTSDを患ってきました。ストレスを取り除くために、精神科の療法を受けたこともあります。

本を書くことで達成したいと思われたことは、どんなことですか。日本人も読むだろうということを念頭に置かれていましたか。

私のユニークな戦争の歴史について、私の家族だけでなく一般の人も実際に起こったことを知ることができるよう、公式な記録を残すためにこの本を書きました。他のライターや歴史家の解釈を読むだけではなく、それらを体験した私本人の視点から知ってもらうためです。日本人も読むだろうと予想しました。

自分の本を、一緒にバターンから脱走しゲリラ隊を組織したジョー・バーカー大尉に捧げましたね。バーカー大尉は、日本軍に捕まり拷問されても、貴方を裏切りませんでした。彼のことを書くことで、読者に何を伝えたかったのですか。

読者には、彼が祖国に対して抱いていた忠誠心、そして彼が絶えた苦しみ、彼が為した行為には並外れた勇気が必要であったことを、理解して欲しいと願っています。

現代の日本人には、かつて自国の軍隊が、当時の国際法だけでなく人間性そのものに逆らうような行動を為し得たことを理解するのは、容易なことではありません。彼ら、特に日本の若者が歴史から教訓を学ぶことに関して、どのようなメッセージあるいはアドバイスを送られますか。

1958年から1964年まで日本に住み、そして日本政府の高官や多くの普通の人々と交際してみて、私は彼らをずいぶん知るようになりました。日本軍は既に民主化されて大きく変っており、かつて存在した旧体質はもやは消滅したと、信じます。
 



ビジネス交渉の相手だった旧日本軍大本営作戦参謀瀬島龍三氏と
 

日本に住まれて日本人と仕事をなさったことがあるのですか。過去の出来事を思い出さずにそれができたのですか。

恨みを抱くことなく戦争体験を考えないようにすることは、問題ありませんでした。私も兵士でした。戦争にあっては兵士は、平和時の細やかなしきたりより、自身の生存と周りの者の安全を確保することを優先するものです。

それでは、貴方は日本の兵士も同様だったと理解しようとなさったのですか。彼らの行動をそのような形で自分なりに納得しようとなさったのですか。

いえ全然違います。私は日本兵の行為と自分のそれを同一視することはありませんでした。日本軍の訓練や文化、そして精神的な姿勢には、アメリカ兵、特に私のそれと似通った点はありませんでしたから。武士道や日本軍の精神は、我々や欧州のそれとは全く違っていました。
 

日本の若者への私からのメッセージですが、過去に起こったことを認識することで得られる利点を、あげたいと思います。日本兵は大変勇敢でした。しかし彼らは、今の我々の文明が受け入れることができない時代に、生きていたのです。

ですから、かつてのあり方と、現在あるいは将来のあり方との違いを認識することは、大変価値のあることだと信じます。

民主主義は素晴らしいシステムですが、欠点もあります。完璧なシステムはありません。日本が落しとし穴に落ちずに彼らの民主主義を向上させていけるかどうかは、日本の若者にかかっているのです。

この写真が、マッカーサー将軍があなたにくれたものですか?

はい。1947年に東京でもらいました。彼は私のために「ラムジーへ、古い戦友から賞賛と親愛を込めて、ダグラス・マッカーサー」と署名してくれました。

ラムジー中佐が、マッカーサーから貰った署名入りの写真を説明するビデオクリップ


* ラムジー中佐の回想録 Lieutenant Ramsey's War  詳細に関しては、彼の公式ウエブサ
  イトをご覧下さい。
   http://www.edwinpriceramsey.com/


* ラムジー佐は2013年3月日、逝去しました。