ルイスB. リード
1920年テキサス州生まれ

- 米陸軍、第31歩兵連隊
- バターン死の行進、オドネル収容所、カバナツアン収容所,
「北鮮丸」、「メルボルン丸」、
仙台捕虜収容所第3分所(三菱細倉鉱山)

 
インタビュー・ビデオ - High Quality / Low Quality
時間 1:26
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バターン死の行進
私は6歳のときに母を亡くし、さらに16歳で父も失い、孤児になりました。そこで陸軍に入隊し、1941年4月、フィリピンに派遣されました。その年の12月8日、ニコルス基地のすぐそばにいたとき、日本軍の爆撃機が襲来して飛行場にあった殆どの米軍機を破壊しました。その後、バターン半島の防衛戦に参加しましたが、1942年4月11日、キング将軍の命令に従って降伏しました。その日のうちに、後日「バターン死の行進」として知られるようになった行軍に加わりました。

およそ2,000人のアメリカ軍捕虜が、長い4列縦隊を作ってマリベレスからほこりだらけの道を歩きました。この時点で私たちは3日間何も食べていませんでしたが、日本軍の隊長がバランガまで歩いたら食事を与えると知らせました。私は空腹でしたので、それは悪くないと思い、急いで出発しました。私たちは道路の脇を歩き、道路の中央は日本軍の兵隊、騎兵隊、砲兵隊やタンクがひっきりなしに行き来していました。私は行進の間、穴のあいた鉄兜をずっとかぶっていました。なぜなら、通り過ぎる日本兵、特に騎兵隊員が馬上から手を伸ばして、小銃の台尻や刀の峰で頭をよく殴ったからです。

暗くなった頃、私たちは50人くらいのグループに集められて道路に隣接した田んぼに追いこまれ、翌朝まで整列したままで座らせられました。その状態のままで用を 足したり、眠ろうと努力したりしなければならなかったのです。その時点までにまだ何も食べていませんでしたが、そのような状態が二三日続き、やっとバランガに到着しました。何か食べさせてもらえる約束だったのに、食べ物は何もありませんでした。こんな調子が数日続きました。

私たちはついにルバオの町に着き、鉄条網の囲みの中に集められました。何百人もの捕虜が囲みの中にいましたが、食べ物はやはりありませんでした。このルバオ留置所は、疑いもなく、バターン死の行進の中でも最悪の場所だったと思います。日本軍は、毎日決まった人数しか囲いから出て行進に加わることを許さず、私はここに3日も留まることになりました。

ルバオでは、とても衝撃的な出来事がありました。水筒に水を入れるため、たった一つの給水栓の前に一日中長い列を作って順番を待っていたときのことです。ちょうど私の番が近づいてきたとき、日本軍の将校がやってきて、私たちをざぁーと見て、私のすぐ前にいた長身でハンサムな兵士を列から引っ張り出しました。将校は、はっきりした何の理由もなく、このアメリカ人捕虜を数人の兵士に引渡すと、彼らは道の反対側に捕虜を連れて行って木に縛りつけ、銃剣で突く練習に使ったのです。列の中で私がいた場所からは、全部見えました。捕虜が死んだ後、彼らは死体を抱えて大きな竹の茂みに放り投げました。そして、ちょうど私が給水栓の前に来たとき、日本兵が私を押し除け、銃剣についた血を洗い流したのです。

オドネル収容所・カバナツアン収容所
オドネル収容所に着いて間もなく、私は22歳の誕生日を携帯食器に半分のルガオ(水っぽいお粥のようなもの)で祝いました。そのうちに、捕虜がハエのようにバタバタと死んでいくことに気づきました。死体は物置小屋の天井に届くまで積み重ねられ、埋葬作業班を待っていました。大きな緑のギンバエが無数に飛び回っていました。よく知っている仲間が午後の2時頃に頭痛を訴えたかと思うと、その夜の10時までには死んでしまうことも数回ありました。ほどなく、私の知っていた全ての人間が死んでしまったのです。戦争が始まったとき、第31歩兵連隊には将校も含めて約2,500人いました。後年、オドネル収容所での最初の6週間に、819人が死んだことを知りました。そこに留まっていたら自分も死ぬと思いました。5月6日にコレヒドールが陥落した後、日本軍は労働を希望する者を募集し始めました。私はオドネル収容所よりひどい場所はあるはずがないと思い、応募しました。

それが間違いだったのです。私たちの小さな作業班は、トラックに乗って収容所を出ました。何とバターンに戻っていくのに気づいて、私は意気消沈してしまいました。バターンだけはいやだったのに…。私たちの仕事は、砲弾集積所での廃品回収でした。砲弾をトラックに積み込み、満載したトラックを何人かで海岸沿いの道路を走ってオロンガポまで運搬するのです。

私は当時黄疸と呼ばれていた肝炎にやられました。既にこの移動でマラリアにも感染していたので、一日おきくらいに震えと熱に襲われていました。今や体力は極端に衰え、もうろうとして、助けを借りないとトラックにも乗れませんでした。多くの仲間がこんな状態で働けなくなり、日本軍はこの作業班を解散して、私たちを収容所に帰すことにしました。

そうするうちに、オドネル収容所はフィリピン人捕虜に明け渡し、アメリカ人捕虜は新しいカバナツアン収容所に移ることになりました。そこに到着してみると、コレヒドールの捕虜がいたのです。彼らと一緒になったのは、そのときが初めてでした。彼らはオドネル収容所には誰一人収容されませんでしたし、降伏したのは、バターン死の行進の終了から既に数週間が過ぎた後だったのです。コレヒドールの兵士は、バターンの兵士が戦闘中に耐えた食料不足を経験しておらず、健康状態も私たちよりは好さそうでした。

私自身は非常に身体が衰弱していたのですが、そこに着いてすぐ、私の元所属中隊の一人に出会いました。彼は夜、他の何人かの仲間と鉄条網をくぐり抜け、丘を下りて小さな集落に行き、食料やタバコなどを仕入れることができると言いました。彼は一緒に来ないかと誘いました。普通ならたぶん一緒に行ったと思いますが、私はとにかくあまりにも衰弱していました。その夜、彼らは日本兵に捕まったのです。日本兵は、彼らを収容所のすぐ外の柱に縛りつけ数日間放置した挙句、最後は銃殺しました。その事件があってから、その頃までには数千人になっていた捕虜は、全員のアルファベット順の名簿が10人ずつのグループ分けられ、そのグループは「射的班」と呼ばれました。もしグループの一人が逃亡したら、他の9人が集められて銃殺されるのです。誰が自分のグループのメンバーかを知る方法はなかったので、10人そろって脱走を企てることはできませんでした。

1944年10月、最初は「北鮮丸」、そして次には「メルボルン丸」の船倉に入れられて日本に連行されました。1945年1月門司に到着した後、仙台捕虜収容所第3分所、三菱細倉鉱山に送られました。

日本の東北地方で三菱のために強制労働
1945年1月27日、私たちは長い移動の後、東京よりずっと北の大きな町にやっと辿り着き、そこで汽車を降りました。固まって硬くなった雪が、60センチは積もっているようでした。ここで寒さに震えながら数時間立ち尽くした後、狭軌の登山列車に乗せられ、西北の山岳地帯に向かったのです。ようやく着いた小さな町では、精錬所が稼動しているのが見えました。周囲はもう夜の帳につつまれ、地面は凍て付いていました。小道を歩いて大きな丘を登らねばならなかったのですが、驚いたことに、そこには新しい材木で捕虜収容所が新築されていたのです。監視搭のある高い木柵がめぐらされ、その中には、強制労働者居住用に二階建ての木造バラックが数棟建っていました。

私たちは三菱会社のために、近くの山にある地下鉱山で働くことになっていたのです。収容所の所長は日本陸軍中尉で、監視兵や職員は全員が日本帝国陸軍の軍人でした。でも鉱山で働き始めると監督は民間人で、全員が三菱の職員でした。

鉱山の入り口から1キロちょっと歩くと中央事務所があり、明るく照明されていました。線路がそこまで来ていて、その先は転轍機で別々の坑道に分岐して行くのです。線路を走る鉱石運搬車には1立米の鉱石が入りました。私は分岐した坑道の一つを通って800メートルほど先にある立坑まで進み、そこで腐って滑りやすい梯子を13段上がった小さな水平の坑道を自分一人で受け持ちました。そこは文字通り山の中心部に当たるところです。切羽から鉱床に掘った穴を結ぶ線路を鉱石運搬車が走っていました。私に与えられた仕事は、自動車のハブキャップに似た道具で鉱石をすくって鉱石運搬車に入れ、穴のところまで押して行き、運搬車の片側を持ち上げて中身を穴の中にどっと落とすことでした。この穴は遥か下の方まであるシュートに繋がり、鉱石は最終的には坑道の外にある別の運搬車まで落ちて行き、さらに処理されるようになっていました。日本人の監督は、あちこちの切羽からシュートを通って落ちてくる鉱石の荷数を数えることができ、全員にノルマがありました。私のノルマは、一日に運搬車20台分でした。私は勤勉な奴隷ではなく、常時監視されていなければ、自分のノルマをぎりぎりまで達成することは決してありませんでした。日本人はそれに不満でしたが、ときどき私の背中を棒で強く殴る以外は、何もしませんでした。

時が過ぎ去っていくうち、私たち捕虜はみんな痩せ衰えていきました。少なくとも気候はずっとよくなってきましたが、私はここで、もう一冬生き延びることはできないと確信していました。体重はたった43キロまで減っていました。

毎日夜になると収容所、近くの町や精錬所は灯火管制で真っ暗闇になりました。そして毎晩のように、東京の方角から大編隊の飛行機の爆音が聞こえるようになったのです。ちょうどその頃、収容所長から、もしアメリカ軍が日本本土に上陸したら捕虜は全員処刑されると知らされました。彼は上陸が間近のようだから、8月29日を全員処刑の日に決定したといいました。そして強面の兵士約一個小隊を連れてきて、収容所の構内のあちこちに機関銃を据え付けたのです。処刑の日までまだ一ヶ月ほど間がありましたが、私たち捕虜の士気は、この情報と機関銃を持った兵士を見て下がる一方でした。

戦争の終結
ある日、朝早くから鉱山に行って仕事をしていると、お昼頃になって日本人の監督が私たち全員を集合させ、点呼を取りました。そして全員を鉱山の外に行進させました。こんなことは、これまで全くなかったことです。私たちは、まだ2週間先のはずの処刑日が繰り上がったのかと、恐怖に包まれました。 町の中を行進しながら、女子事務員が泣きながら呆然と立っているのに、気づきました。彼女たちは、ラジオで天皇の降伏のスピーチを聞いたばかりのところだったのです。街の中を行進すると、小さな子供が追っかけてきて、私たちのぼろぼろの服を引っ張りました。「せんそう、終わり…」と子供は大声で繰り返しました。でも3年半も捕虜として生きてきた私たちは、即座に信じませんでした。戦争が終わったということが、ただ信じられなかったのです。もちろん、原爆のことやその影響のことは、誰も 全く知りませんでした。日本人は知っていましたが、黙っていました。とにかく私たちは収容所に戻りました。それでも日本人は何も言おうとしませんでした。でも私たちは、夜になって町に灯りが再び点ったこと、毎晩飛んでいた大編隊の爆音が、もう聞こえないことに気づきました。私たちは希望を持ち始めました。こんな状態が一日か二日続いた後、日本兵、監視兵そして収容所長、全員がいなくなってしまいました。残ったのは、三菱の下っ端だけで、彼らが戦争の終わったことを正式に宣言したのです。次に彼らは、黄色の塗料が入ったバケツを持ってバラックの屋根の上に登り、大きなPWの文字を書きました。

1945年10月、私は米海軍病院船「レスキュー」で帰国しました。航海は、途中グアムと真珠湾にそれぞれ一日停泊し、数週間かかりました。ついに 、4年半前最後に見た金門橋の下を過ぎて母国に帰り着いたのです。その景色を見たとき、私はこみ上げてくる感情をどうしても押さえることができませんでした。
(ルイス・リード著回想録「NO BUGLES NO PARADES」から抜粋)


細倉鉱山の近くで育った日本人とリード氏の文通

親愛なるリードさん

日本の東北地方で育った私は、自分の住む宮城県に1千年も続く有名な三菱細倉鉱山があり、その鉛と亜鉛の産出は日本有数であることを、小さい頃から知っていました。でも長い間、戦時中にそこで200人以上のアメリカ人捕虜が強制労働に就かされていたことは、全く知りませんでした。

最近私は三菱細倉鉱山を訪ねてきました。それはもう何年も前に閉山となっていました。私は暗い坑道を歩きながら、敵国の辺鄙な鉱山で、生きて母国に帰れるかどうかも分からず働かせられていた若い米兵たちのことを、考えました。そして、ここでの強制労働を生き延びた方を見つけることはできないだろうかと、思いついたのです。

あなたが、細倉鉱山で私が撮ってきた写真をウェブサイトで見てご連絡下さったとき、私はどんなに驚き嬉しく思ったことでしょう。まず最初に、あなたが捕虜として耐えなければならなかったご苦労に心からのお詫びを述べさせて下さい。そしてつい最近まで、捕虜の戦時強制労働が私の故郷の近くで行われていた事実を知らずにいたことも、申し訳なく思います。私がそこを訪れた時、あなたやお仲間の捕虜がいたことを知るよすがは、何も残っていませんでした。だからこそ、自分が歩いた坑道を60年前に歩かせられた方を見つけることが、私にとってとても大切なことだったのです。

美しい回想録をお送り下さり、有難うございました。寂しかったあなたの子供時代のことを知り深い悲しみを覚えましたし、あなたの捕虜体験がいっそう悲劇的に思えました。日本軍の捕虜になる前に、あなたは人生で出会わなければならない寂しさを、既に充分味わっていたのですね。

これほどのつらい体験をなさった後に、戦後高等教育を受けられ、後にビジネスで成功されたことを、本当に立派だと思います。あなたの素晴らしい家族の写真、特にお孫さんたちの写真を見せて下さり有難うございました。あなたが、各種の退役軍人組織で活発に活動なさっていることも、大変嬉しく思いました。

あなたの人生の物語を共有させて下さったことに、改めてお礼申し上げます。細倉三菱鉱山を訪ねて本当によかったと思っています。これからもお手紙を交換していけますように。

敬具

徳留絹枝


細倉鉱山2003年



リード氏と徳留絹枝

親愛なる絹枝さん

手紙を有難う。
あの頃、もっと多くの日本の一般市民と会って話す時間がなかったことを、残念に思います。1945年の東京で数人と会う機会がありましたが、彼らはとても友好的でした。私が出会った子供たちは、いつでも人懐っこい子ばかりでした。盛岡ではときどき子供たちに出会うことがありましたが、おじぎしていつも私たち一人一人に、近くの果樹園から採った新鮮なりんごを差し出すものでした。
 
実際、戦争中のつらい捕虜体験の殆どは、フィリピンの日本軍によるものと、マニラから台湾まで乗せられた最初の捕虜輸送船で起こったことでした。日本に着いてからは、空腹と幾つかの病気に悩ませられましたが、本当につらい経験はありませんでした。食糧事情に関するなら、日本の一般市民が自分たちよりそれほど良いわけでないことを、感じていました。

日本軍の捕虜になった私たちは、日本兵の行動と日本への輸送船に印をつけなかったことに関して、誠実な謝罪を受ける権利があると思います。

個人的には、強制労働に対するいかなる金銭的補償にも、特に関心はありません。私が 捕らわれの身でいた期間に建設的な一側面があったとしたら、それは忍耐を学び、多くの自己鍛錬を習得したことでした。

愛を込めて

ルイス


最近のリード氏

                                                                                                 2004年11月掲載
       

* ルイス・リード氏は2011年3月31日に亡くなりました。