元捕虜の日本再訪と遺族の初訪日

伊吹由歌子                                

ルソン島のヘルシップ慰霊碑除幕と9日間にわたる慰霊の旅を終えた元捕虜エヴェレット・リーマーさん、大阪収容所の支所で亡くなった捕虜の娘と孫であるナンシーおよびデイヴィド・ブラウン母子は、1月25日関西空港に到着し、リサーチャー福林徹氏と毎日新聞記者 花岡洋二氏の出迎えと歓迎をうけた。

エヴェレット・リーマーさんという元捕虜がミンダナオ・高雄(台湾)・日本をオプションとする今回の慰霊碑ツアーの、日本オプションを希望しているとホストのハイジンガーさんから聞いたのは、昨年5月、私が初めて参加を許されたADBC(バターン・コレヒドールで捕虜になった米防衛軍の戦友会)のシンシナチでの大会だった。この時以来、訪日を意義あるものとするお手伝いをしたいと思いつつ、直接コンタクトする折はないままに、今回、元捕虜4人を含み60人におよぶ、大部分は捕虜だった方々の家族・遺族の旅に加えていただく幸いを得た。航空券を大阪発着としたものの、この時点では彼らの大阪到着後、自分がエスコートをするかどうか全く分からず、留守を守る主人にもそう告げて出かけた。マニラでツアーの一行に合流した私は、1月17日の夕食まえ、前日、空港で会ったばかりという徳留絹枝さんにリーマーさんとブラウン母子を紹介されたのだった。その体験からして、彼らは日本へくるのに決心がいったことだろう、その決意をしてくださって心から感謝しお手伝いしたい、と申し上げた。

米比防衛軍降伏から64年、日本の敗戦から60年余のときが流れ、1960年代から戻ってきたという緑が、コレヒドール島、バターン半島の山々を覆っていた。長期のバターン篭城戦に疲労困憊し、2ヶ月の制限食による栄養失調、マラリア、下痢、赤痢に苦しむ捕虜たちが、水分補給も食べることもままならず、「逃がすな、ゲリラにするな」と命令をうけた言葉の通じない監視兵のもと、102キロの埃とごろた石の道を歩いた。戦後の復興と経済発展のなかで新道も建設され、捕虜たちや避難民の歩いた「死の行進ルート」を覚えて戦争の狂気と残虐、捕虜たちの苦難を偲び、平和を祈念しようと、マリヴェレスを起点に、非営利団体FAMEFilipino-American Memorial Endowment)による道標が設けられている。一基500ドルの建設費は寄付で賄われる。オドネル、カバナツアンの両収容所跡では、記念碑に莫大な犠牲者の名が刻まれており、金網越しに捕虜たちも見たであろう山並みが広大な原野を囲んでいた。その地に立ち、ホストであるデュエイン・ハイジンガーさんの的確な説明を受け、体験者のコメントを聞き、戦後育った息子たちや歴史家たちの視野のひろい広範な勉強の成果も随所ではさまれた。ハイジンガーさんは鴨緑丸犠牲者である父の死までを調査してFather Foundの著があり、収集した膨大な情報を生かして生還しなかった家族を尋ねる遺族たちの調査のかなめとなっている。同じく鴨緑丸犠牲者の子息であるジョン・B・ルイスさんも、japanese-powsというウェブサイトを主宰し、情報交換を助け、ハイジンガーさんのよき片腕である。今回のルソン・ツアー参加者はこの2人の関係者が多かった。フィリピン旅行に経験を積む旅行社Valor Toursのボブ・レノルズ氏、FAMEEdna Binkouskiさんもガイドをつとめた。

ツアーでの毎日は奇跡のように、素晴らしい学びのとき、触れ合いのときとなり、リーマーさん、ブラウン母子にも頼まれ、彼らの日本滞在のお供をし、その日々を実りあるものとするよう努力するのは私の務めと思えてきて、1月24日、マニラから主人に電話して許しを願った。旅の参加者ひとりひとりに、大きな影響を与えられたが、短い時間に膨大な事実を正確に把握することはできない。この3人とは、時をかけ理解するときを与えられたと思うのでこのエッセイを書かせていただくことになった。

1月26日、一同は福林氏 に案内され堺刑務所を訪れたが、米領事トマス・クロイツァー氏が米国人3人のため特別許可を整えておいてくださり、3人をエスコートしてすっかりモダンな刑務所として建て替えられた所内で所長の歓迎と説明を受けた。リーマーさんが1944918日から1945822日まで苦しい日月を過ごした暖房なしの旧型独房は記念用に保存されていた。

お昼には暖かいうどん、おそばに挑戦して楽しんだあと、多奈川へ行き、ナンシーさんの父、チャールズ・T・ティンリー大尉が亡くなった収容所跡などを辿った。多奈川収容所では述べ約400人のうち、4分の一にあたる100名余りの犠牲者をだしている。ティンリーさんが1943年2月2日に亡くなったことを示す地元役場の火葬許可書を福林氏は米公文書館で発掘しており、一同は墓地にのこる無縁者共同火葬場跡、現在は住宅街となっている捕虜収容所跡地、捕虜たちが強制労働させられた川崎重工の造船所跡地などを回った。岬町役場では担当者に新聞記事切り抜き、元捕虜達との間で交わされた手紙などを見せてもらいしばらくの時を過ごし、新しい情報があれば知らせるとナンシーさんと連絡先を交換した。死亡通知は19446月家族に届き、46年帰還した父の親友が遺品の財布を届けてくれた。中にオドネル、カバナツアンで書いたままの父からの手紙があった。日付から長門丸で輸送されたと思われると、ハイジンガーさんからツアーを知らされたのだった。この日いっぱい同行した花岡記者は最後に大阪梅田のレストランまで案内してくれた後、この日の記事を本社に入稿するために、別れを告げた。



花岡記者持参の地図で多奈川捕虜収容所跡地を見る

黒豚の塩焼き、梅干を載せた緑茶のお茶漬け、漬物などで夕食をともにしつつ、リーマーさんは改めて「多く資料をいただき、今日一日案内してくれて本当に感謝している。この3人をどう思ったか。」と福林氏に尋ねた。「タクシー代などを出していただき恐縮している」と言う彼に「そんなことは当たり前。私が日本人に対し何の恨みも持たないことを皆に知らせてほしい。」とリーマーさん。福林氏は「私の父は二度赤紙がきて出征したが、その合間、徴用されて捕虜や朝鮮人強制連行者と同じく、田奈川の工場で川崎重工の造船所建設のために働かされた時期があった。ナンシーさんにお会いして、それを思い出しました。最初は中国戦線へ、2度目は東南アジアに送られるはずがすでに乗る船がなく、京都で軍馬の世話をさせられていた。兵一人死んでも何の事はないが、軍馬を死なせたりしたら、それこそ大変だったのですよ。」と話し、2人の父親が同じ場所にいたという奇遇に一同、感慨深かった。

花岡記者の書いた記事が毎日新聞1月27日朝刊に写真入りで掲載された。その午後も休暇をとった福林さんは、リーマーさんを大阪城内に残る元中部軍司令部の建物へ案内した。この建物は、現在閉鎖されていて入れないが、福林氏が、「ここの2階で、あなたを窃盗罪で裁いた軍法会議が開かれたはず」と説明するとリーマーさんは、「そう、2階だった」と確認。赤十字の箱が積まれ、開けられているのもあったが捕虜たちはもらわなかったので、ある夜、別の捕虜仲間と2人でその箱を取りに行った。自分は捕まらなかったが箱を持って部屋へはいるところを見られ、部屋仲間全員が食事を抜かされた。それでやむなく自首した。収容所内での拷問は一ヶ月以上続き、殴打、肺へ水を注入するなどのほか、最初の132時間は食物を与えられず失神するまで気をつけの姿勢で立たされた。裁判の結果、2人とも懲役1年の刑で堺刑務所に入獄したが、所内の欧米人捕虜は英国人2人、オランダ人ひとりを含み8人、他に露、独、仏など18人の各国民間人も収監されていた。

 


一度凍傷から菌がはいって右腕が壊疽を起こした。注意をひくため規則に違反して横になっていると、はじめは看守が蹴っていたが、数日後、完璧な英語を話す刑務所長がきて問題が判明。雪のなかをはだしで市内の刑務所救護所の医者のところへ連れて行かれ、看守2人に押さえさせて麻酔なしで手術された。90代のその医師が彼の命を救ってくれた。


その後、大阪築港の捕虜収容所跡地を訪ねたが、リーマーさんは荷役作業などをさせられた岸壁付近に残る倉庫数棟を覚えており、また当時の収容所の配置や建物の変遷などを詳細に語ってくれた。コレヒドールの対空砲手だったリーマーさんは鳥取丸で1942年9月11日にマニラを発ち、門司へ運ばれて19421111日という初期に大阪収容所本所へ入所したのだった。

大阪築港の虜収容所跡地での
リーマー氏と福林氏

 

収容所跡地を訪ねるまえ福林さんは大阪城に隣接する「ピース大阪」へも案内した。日本軍のアジア各地での残虐行為とともに、大阪空襲がフィルム、写真、日英の体験談などで展示されている。一般市民の体験談をじっくり読んでから、「私は空襲もよく知っているし、コレヒドールで、大阪で、横たわる死体も沢山見た。戦争は二度と起こしてはならない」と、リーマーさんは力をこめて語った。この夜、12日ぶりに私は夫が留守を守る東京の自宅へ帰った。茶目っ気たっぷりのリーマーさんに「帰ったらもう夫のない身かも知れないね」と言われつつ。思うに私たちは同じ問題を抱えていたようだ。帰国後のリーマーさんのメールにこうある。「うちには16歳になる白いプードル犬がいるのだが、彼はこんなに長く留守をした私にカンカンになっていて、しばらくの間、一切見向きもしなかった。」

明確な絵や言葉には結びつかない足跡探訪ながら、父上ゆかりの土地を回ったナンシーさん。 「ここは皆長生きで80,90,100才のひとまで沢山いる。時候のいいときにまた来れば、皆の話が聞けますよ。」とタクシーの運転手さんは、料金をおまけしてくれた。「これでもうよし。私は観光客よ。」と宣言したナンシーさんは、想いを振り払うように、息子と京都を楽しみ、富士の絶景にも恵まれて新幹線で東京へやってきた。1月30日には、保土ヶ谷の英連邦墓地を訪ねた。 日射しの暖かい日で冬椿が咲き、墓地周辺の樹林では鳥がさえずっていた。「また日本へ来るわ、父を知る旅に終わりはないから。」とナンシーさん。「それに日本の冷蔵庫はすごく気に入ってしまったの」。英連邦墓地の納骨堂で、門司到着後に病院で亡くなった鴨緑丸米犠牲者48人の名を刻んだ碑を見ながら、祖父を知らないデイヴィドさんは言った、「彼は家族みんなの誕生日をカードに書いて持っていたんだよ。」 

それぞれ関空と成田からリーマーさんは28日、ブラウン母子は31日にマニラへ戻り、数時間待機したのちサンフランシスコ経由で飛行機を乗り継ぎ、アリゾナ、シンシナチへと丸一日の旅路で帰国した。大変だったと察せられるが3人とも今回の訪日はよかったと喜び、次回のADBC大会フェニックスで再会を望んでいる。今朝は悲報があった。ツアーに参加した元捕虜のひとりチャールズ・タウンさんが、1月30日自宅で亡くなったのだ。コレヒドールの衛生兵、数少ない鴨緑丸生存者で、韓国仁川で解放された。両手に杖をつき、今回の慰霊の旅にすごい決意で参加しておられる様子が随所で伝わってきたが、エドナさんのパーティーな
                                                     
    カバナツアン記念碑でのタウン氏

どでお話したときは自分の育てる植物のことが多く、戦後投下された米軍キャンディーを100
個も食べたとか穏やかな方だった。歴史の生き証人である彼らと出会える私たちは、国境を越えて事実を誠実に掘り起こし、人間的なまごころで対応したい。友人、家族を引き裂き、人の悪い面を助長する戦争。チャックさんのご冥福をお祈りし、垣根を取り払い交わりにこころを開いてくださった皆さんに深く感謝する。

* バターン死の行進について今回学んだことをここで書く余地はなかったが、ある看守の英語スピーチを紹介しておく。“We are enemies, shall enemies. You think you are lucky to have escaped death. The dead are lucky. (我々は敵同士であり、これからも敵である。お前たちは死を逃れて幸運だったと思っている。幸運なのは死んだやつらだ。) 残虐行為の裏にある信念と理解した。