ボブ・ブラウンの思い出

シェリー・ジンブラー

私がボブ・ブラウンに初めて会ったのは、2001年にワシントンで開かれた奉天捕虜収容所捕虜の戦友会(リユニオン)でした。それは、あまりよい出会いとは言えませでした。彼とはほんの僅か言葉を交わしただけでした。私の妻のスーザンの大叔父エイブ・ガーフィンケルのことを何か知りませんか、とボブに聞いたのです。私は、彼が将校で1944年の冬に奉天に移送されたことを、話しました。ボブは私の顔を見ると、「将校は、1945年の5月まで来なかった」と言い切りました。私は愚かにも、上級将校が1944年の11月に満州に移送されたことを伝える1945年2月の新聞を持っていると、彼に宣言したのです。彼は「新聞が何と書いていようが知ったことじゃない。それは間違っている」と繰り返しました。これがボブとの最初の出会いの全てでした。結果的には、ボブは正しかったのです。でも私はボブのそばを離れて、他の元奉天捕虜(アメリカの英雄たち)と語り始めました。妻とこの会に参加した後も、彼女の大叔父に関する情報は全く得られませんでした。


私たちは翌年の9月、ミズーリ州のブランソンで開かれた奉天捕虜収容所生存者のリユニオンに、また参加しました。私はそこでヴァル・ガヴィト氏に会いました。私たちは、コレヒドールが陥落した時の星条旗について、話し合いました。ボブ・ブラウンも加わり、私たちは1時間あまり語り合いました。次の日も、会話は続きました。これが友情の始まりでしたが、それは癌によって断ち切られることになるのです。 私の兄が癌で死んだこと、彼も兄を癌で亡くしていることを、話し合いました。ボブは、彼自身や奉天捕虜収容所に収容された捕虜のことを、話してくれるようになったのです。
          
                          
シェリー、ボブ、シェリーの息子スコット 
 
                                                

それから一年して、妻と私はオクラホマ州のヘンリエッタで開かれた奉天捕虜のリユニオンにまた出席しました。ボブも来ていて、私たちは一年前の会話をさらに続けました。私はこの時まだ、本を書くことなど全く考えていませんでした。私たちは他の元捕虜も交えて、何時間も語り合いました。ボブとジョージ・エドワード、アーウイン・ジョンソン、グレン・ステユワートなどとの友情も知りました。グレンとボブは、自分たちが開放された日について、議論していました。グレンは「何でも知っているあいつが、やっぱり正しかった」と後で私に言いました。私がそのことをボブに話すと、すまなそうにしていましたが、彼の記憶が正確なことを、私たちは心の中で知っていたのです。ボブは、自分の記憶を誇りに思っていました。彼の記憶は、事実を掴んで決して逃がさない万力のようでした。彼は、奉天から帰還した後、自分が日本軍の捕虜だったことを同僚や部下の誰にも言わなかった、と私に言いました。アーウィン・ジョンソンや他の元捕虜がよく言っていたように、ボブも「自分たちが味わったあの体験を、いったい誰が信じられるのか」と思っていたのでしょう。

2004年の5月、妻と私は、全米元日本軍捕虜の会(ADBC)の総会に、初めて出席しました。いつものようにボブは、彼の捕虜体験を語るスクラップブックを持参して、会場に来ていました。それからの5日間、私たちは数多くの元捕虜と語り合い、ボブとも何度も話しました。2004年の9月、モンタナ州で開かれた奉天捕虜のリユニオンに出席し、翌2005年のリユニオンを私たちの住むニューヨーク州キングストンで開催させてもらえるという決定に、深く感激しました。その会にはボブも参加し、古い私たちの町を楽しんでくれました。彼が語った奉天での体験は、私たちの町の新聞の第一面に掲載されました。近くにあるウエスト・ポイント陸軍士官学校からも招待を受け、1965年度の卒業生を称える会に出席しました。
 

                           

                                  シェリーとスクラップブックを見せるボブ

2006年のリユニオンは、ワシントン州のパスコでしたが、ボブはそこで、3年半の栄養失調と死の行進で受けた傷の後遺症が悪化し、入院することになってしまいました。他の多くの元捕虜と同様、彼は負傷兵に授けられるパープルハート勲章を受けていませんでした。彼の負傷は、降服の後に起こったものだったからです。私とボブはそれから一年近く、アメリカが誇る全ての負傷兵と同様に、彼にもパープルハートを受ける資格があることを話し合いました。ボブと9人の元奉天捕虜は2007年5月、瀋陽(旧奉天)を訪れました。私も同行し、そこでパープルハート勲章についてまた話し合いました。2007年8月、彼はバターン死の行進で受けた傷により、パープルハートを授与されました。日本兵からライフルの台尻で首と肩を殴打された傷の痛みは、その後65年にわたって彼を苦しめてきました。この8月、制服に身を包んだボブは、ビール空軍基地で誇らしげに勲章を受けたのです。


           

                     パープルハート章授与 2007年8月
              「ビール空軍基地ニュース」
  から (
photo by John Schwab)


2007年9月、彼らはまたキングストンでリユニオンを開きました。ボブと私は、個人的なことについてもずいぶん話し合いました。ボブは彼の家族への誇りを語りました。二人の娘さんの写真を見せてくれ、ローズマリー夫人のことを話しました。彼の曽祖父が政府から開拓地を譲り受けた経緯を語りました。彼は例のスクラップブックを持ってきていました。彼は奉天収容所で衛生兵として働いた日々のことを語りました。ボブは自分の医療技術、そして奉天収容所で200本近くの歯を抜いた事実を、誇りにしていました。私たちの会話は、1944年12月7日、奉天が米空軍のB-29の爆撃を受けたとき、彼が昼夜ぶっとおしで働いたことにも及びました。彼の医療技術は、通常の事態では想像もつかない状態で試されたのです。彼は、負傷して手術台に連れてこられた兵士の誰一人も失わなかったことを、誇らしげに語りました。54人の命が救われ、手足を失った者も1945年8月の開放の日を迎えることができたのです。

彼は、日本語を覚えて話せるようになったことを、誇りにしていました。大気医師との友情。この日本軍の医師は、1945年春にボブが盲腸の手術をした後、家族に手紙を出すことを許可しました。戦後大気医師を日本に訪ねたボブは、2005年に再び彼の家族を訪ねました。
 

        

    大気医師を訪ねたボブ(1955年)          故大気医師の家族を訪ねたボブ(2005)


私たちの会話は、いつも彼の体験に戻 っていきました。彼は、フィリピン・スカウトの勇敢さを思い出し、バターンで彼らが示した戦闘能力を高く評価していました。ボブ・ブラウンは、生存するバターン生還者の中で最年少であることを、誇りにしていました。カバナツアン捕虜収容所のおぞましい様子や、捕虜輸送船「鳥取丸」での恐ろしい航海について語りました。正確な記憶で、その地獄船がかろうじて避けた魚雷のことを振り返りました。釜山の埠頭そして奉天の凍てつく寒さの中に立たせられた思い出を語りました。

彼は、この国を誇りに思っていました。彼は粘り強くあるための二つのルールについて語りました。「ルール1:もう一歩を踏み出すこと。 ルール2:もうこれ以上進めないと思った時は、ルール1に戻り、もう一歩を踏み出すこと」

ボブはアメリカの英雄でした。2007年9月、キングストンで彼を見送ったとき、それが彼を見る最後になるとは夢にも思いませんでした。
 



2007年ニューヨーク州キングストンでの奉天捕虜リユニオン
 

2008年5月のADBC総会で、ボブが肺がんの診断を受けたことを知りました。帰宅して彼に電話しましたが、それはその後何度も私たちが交わした電話での会話の始まりでした。これまで4回癌から生還した私は、自分たちの運命を茶化しあったものです。キモセラピーのことそして痛みのことを、話し合いました。最後にボブと話したのは9月末、ミズーリ州ハンニバルで開かれる奉天生還者リユニオンに出発する日でした。彼が、バターンでの戦いでの功労で、ブロンズスター勲章を授与されたのはその週でした。ボブは、奉天収容所での働きを認められた3通の表彰状(日本軍から2通、米軍から1通)も、大変誇りにしていました。


私たちは、私の本について語り合いました。私は、彼が生きている間にそれを読むことができたことを、とても嬉しく思っています。彼の容態を考え、印刷所から仕上がってくるやいなや、翌日配達便でボブに送ったのです。私たちはこの本について長く語り合いましたが、彼が私の記述の仕方に満足したことを、私は誇りに思いました。

本のタイトルは、「Undaunted Valor  The Men of Mukden... In Their Own Words (不屈の勇気:奉天の男たち彼らの言葉で綴る)」 です。

その本を書くために私は10年を費やしたのですが、その間、数多くの奉天捕虜収容所からの生還者にインタビューしました。本は彼らの物語ですが、語ってくれたのはボブ・ブラウンです。彼は、ストーリーの展開を繋ぐ接着剤でした。一人一人の男が物語に大きく貢献しましたが、ボブは彼ら全員の影の声でした。

 

彼らのフィリピン防衛戦は、戦争の流れを変えました。バターンとコレヒドールは、ターニングポイントでした。彼らの戦いが、犠牲と勇気が、日本軍のオーストラリアへの侵攻を遅らせ、米軍の南方の島々への補給と勝利への道を、可能にしたのです。悲しいことに、バターンとコレヒドールの将兵は見捨てられましたが、彼らの運命は報われました。これらの男たちは敗北したのではなく、その英雄的防衛戦が、太平洋での勝利のスタートになったのです。彼らこそ、終わりの始まりだったのです。

米空軍最上級曹長ロバート・A.ブラウンは逝きましたが、私たちは、決して彼を忘れないでしょう。ローズマリー夫人とブラウン家の人々に、心からのお悔やみを申し上げます。彼らに神の加護がありますように。



ロバート A. ブラウン
1924年8月24日-2008年10月15日

 

*  新聞 「Appeal Democrat」に出た死亡記事   Robert A. Brown

Undaunted Valor  に関する問い合わせはジンブラー氏まで Shelzanne@aol.com