レイモンド・ハップ・ハロランさんを偲んで  

伊吹由歌子

2011年6月7日、89歳の天寿をまっとうしレイモンド・ハップ・ハロランさんが召されました。       
 
徳留絹枝さん主宰の日英バイリンガルのウェブサイト「捕虜 日米の対話」に掲載する彼の記事を和訳させていただいた2004年に、私は知己を得ました。彼の文章はごく早くに収録された内の一遍で、ご覧のとおり、第2次大戦末期の数ヶ月、日本を爆撃し撃墜されて捕らわれ、くぐりぬけた類まれなほど恐ろしい体験の物語りです。しかしながらそれは、捕虜の日々に受けた暴力、屈辱、恐怖そのものの体験が植えつけた極度の後遺症を,日本と日本人に向き合うことで克服し、著者がついに獲得した前向きな視点を語る素晴らしい感動の物語でもあります。

体験記から引用します:

第二次大戦の辛かったあの日々があったから、自分をよく知ることができた、それが生涯の長い年月私を助けてくれたという結論に辿りついているのです。今日このときにも力になってくれている学びです。そして私はこれからもずっと学んだことをひとの成長のために役立てていくつもりです。とくに若いひとに、彼らが成長のため小さな手伝いを必要とするときに

記事翻訳のために始まったハップさんとの交流は、その後、遺族のため戦中事実を掘り出すお手伝いや、クリスチャン同士共通の話題へと発展してゆきました。ハップさんの言葉を少し紹介します。

僕は幸運にも生き延びました。神様の偉大な計画のなかでそれは多分、将来、助けを必要とする人たちの手伝いを僕がするためだったのでしょう。それを僕は一生懸命に努めています。それが達成され、遺家族たち、個々のひとたちが末永く感謝してくれるときは、何とも最高の気分です。

東京空襲記念館との交流、援助をふくめ、同じ戦争で苦しみをなめた日本人にも、彼は思いやりがありました。

2007年6月21日、隅田川の土手で行われた男性、女性お二人の(TBSテレビ)取材は、私にとって非常に大切なものでした。(自分でも助けが要る身なのに)そのご婦人の左腕に手を添え彼女が土手の階段を上がるのを手伝いました。(彼女は3月10日の火の中で右腕すべてを失ったのです。)二人が話されるのをすっかり聴き、そして私は彼らの気持ちが理解でき、和解を、また彼らが気持ちにけりをつけた度合いを感じられたのは、彼らにも私にも大切なことでした。

「けりをつける(Closure)」とは日本の過去の戦争問題に決着をつけるハップさん独自のコンセプトでしたが、心ある日本人として同意はできないところでした。ご存知のとおり、民主党政権下で、「捕虜と日本人の友情プログラム」が発足し目的の半分は達成され、私たちはさらに残る半分の目標に向かい働いてまいります。経団連が世界の大企業として過去の捕虜使役事実を認識し謝罪を表明してくださり、さらに両者が力をあわせ教育基金を設定する意義に、気づいていただけるよう願います。

ハップさんとはアメリカで日本で、数回お会いしました。最後に交換した一連のメールは2010年3月、長澤幸江先生の最新の活動についてでした。2004年、教頭として勤めていた小学校の門を突然来校したハップさんに開いた方で、その学校はいまも昔も、旧大森収容所の近くにあります。5年の生徒たちと会い、話をするハップさんの姿はNHKテレビで放映され、長澤先生はその出来事を写真入りの美しい日英対訳の小さな本にし、講演活動もなさっています。ハップさんはいつも彼女に心から感謝しておられました。 

        ハップさんと長澤幸江先生

訃報を受けたとき、丁度、新しい講演のためハップさんからの手紙を読み返していた長澤幸江先生からメッセージを寄せていただきました:

ハロランさんが大森第五小学校を訪れた日(2004年6月)のことを、わたしはいまも鮮やかに思い出すことができる。NHKの取材班と一緒でそれは突然の来訪だったが、慈愛に満ちたその笑顔は一瞬にしてわたしの心を捉えた。B29の搭乗員であり平和島の捕虜収容所にいたこと、当時からこの地にあった大森小学校を懐かしく思って入ってこられたということだった。

その年は開校70周年であり、わたしはその準備のため60周年記念誌や古い写真を整理していた。60周年記念誌に載っていた「解放を喜ぶひとたち」の写真の中の一人が、いま目の前にいることに驚いた。いくつかの資料をお見せすると非常に喜んでくださった。そのことがきっかけで2日後には子どもたちとの対面を実現させたが、ハロランさんがなぜこどもたちと会いたかったか、なぜ大森の地を忘れなかったかを後に次々と知るうち、戦争中の悲惨な出来事や過酷な運命に衝撃をうけた。気も狂わんばかりの収容所での生活の中で、こどもの存在は平和の道しるべであり希望だったといっている。ハロランさんは「お互いの人生が交差したことを幸せに思う。」と言ってくださった。わたしは、これからも、未来を信じること、素朴だけれど人としての深い愛を信じることをハロランさんの人生を通して伝えていきたい。それが交差した一方に与えられた使命だと思っている。
          

                                                     
     大森第五小学校元教頭 長澤幸江


信頼する友人マイク・ブラウン氏の助力を得て、ハップさんは第二番目の自伝を計画しておられたと承知しています。彼の病いによる影響は避けられないことですが、能力あるマイクさんの熱意と、たぶん天上の力添えで形になることを願っています。使命には機敏で勇敢、しかも日常の小さな喜びに謙虚なこころからの感謝にあふれ、行き届いたジェントルマンのハップさんでした。亡くなった夜、「床につくのは嬉しい」とスタッフたちと握手なさったそうです。3人のお子さんたちが集ってお嬢さんの誕生日を祝い、ハップさんは彼女のためにハッピー・バースデーを歌い楽しい一日を過ごされたのでした。彼に学んだことの大きさは限りないものがあります。有難うございました、ハップさん。



 ハップさん、マイクさんと2007年   


ダン・ハロラン氏が葬儀で述べた父への追悼のことば

89歳4ヶ月と3日……

父はアメリカで、日本で、また世界中で、多くのひとの人生と心に触れました。赦し、和解、愛、誠実さ、名誉、忠誠、そしてひとへのいたわりのため、彼は力を尽くしました。多くの人々が彼をハップと呼びましたが、私が知っている彼は、父、そして一番の親友としてのみです。ふたりの意見が合わないときでも、彼はいつも私を応援してくれました。共に行った釣りの旅、オレゴン沿岸へのドライブ、土曜日、下町の父の事務所で彼がテープレコーダーに吹き込みをする間、弟、妹と遊んでいたことをいつまでも忘れません。彼は僕たちの「週末戦士」でした。私たちはいつも週末を父と過ごしました。

1985年に彼が日本を再訪してから、私は本当に父を理解しはじめたのでした。1945年に彼が体験したこと、いまではPTSDとして知られる外傷性ストレス障害に彼は苦しみましたが、いつも毎日を「ボーナス」の日と位置づけ、人生を最高に生き抜きました。彼にならって私も自分の人生を生きています。

彼が退職したのち、私たちは一緒に旅行に行くようになりました。

彼とおなじ搭乗員仲間二人のお墓参りにハワイへ。
サイパン
日本
アイルランド
ドイツ
イタリー
第73回爆撃部隊リユニオン
航空ショーの数々

僕たちはよいチームメートでした。

一緒の旅で父はいつも搭乗員仲間Roverboysのことをまるで兄弟のように語るのでした。

彼はこのクルー最後の生き残りでした。搭乗員みなさんのお名前を読み上げます。 エドムンド G スミスさん、ヴィット C バーブレリさん、ジェイムズ W エドワーズさん、ウィリアム J フランツ ジュニアさん、ロバート L グレイヴさん、ロバート B ホリデイさん、ガイ H ノーベルさん、セシル T ライルドさん、アンソニー S ルカシヴィッチさん、そしてジョン P ニコルソンさんでしたいまや彼らにはナビゲータがいます。みなで強い追い風を受けて飛んでいるに違いありません。

アーリントン墓地で父がグレッグ・パッピー・ボイントン空軍大佐の追悼の辞を述べたとき、彼は「千の風になって」を朗読しました。これはB29の仲間や友達が亡くなったときいつも彼の慰めになった詩です。

私のお墓のまえで泣かないでください
私はそこにはいません 眠ってなんかいません

千の風になってあの大きな空を
ふきわたっています

ダイヤのようにきらめく雪になる

実った穀物にふりそそぐ日光
秋のおだやかな雨

朝の静けさのなか あなたが目覚めると
私のすばやい上昇気流にのって
上空で静かに輪を描く鳥たち
夜はやわらかく輝く星たち

私のお墓に立って泣かないでください
私はそこにはいません  死んでなんかいません

 


追記   

Unjust Enrichment: American POWs Under the Rising Sun Guests of the Emperor: The Secret History of Japan’s Mukden POW Camp」の著者であるリンダ・ゲッツ・ホームズ氏も、以下の追悼を当ウエブサイトに送ってきました。

私がハップに最初に会ったのは、ニミッツ博物館で「Crucible of Deliverance: POWs and the A-Bombというシンポジウムが開かれた時でした。ハップは、信じがたい彼の物語を静かに語りながら、聴衆を釘付けにしたのです。その後私は、ニューヨークのジャーナリストのグループのために講演してくれるよう、彼を説得することができましたが、これらの老練なジャーナリストたちは、これまで聞いた最高の講演だったと言っていました。ハップは、私の息子フィリップのためにRover Boys Express (彼が搭乗していたB-29)の写真に親切に署名してくれましたが、息子はそれをロサンゼルスの自宅に大切に飾っています。私もまた、彼の署名入りの自伝「Hap's War」を、ずっと大切にしていくでしょう。彼からもう手紙やクリスマスカードを貰えないことを、悲しく思います。

ハップが、第二次大戦で戦った日本側の兵士と会おうとし、友情の手を差し伸べようとしたことは、戦後の数多くの人々にとってインスピレーションとなりました。

私は、彼が毎朝外に出て言っていたという言葉を、いつも忘れません。「神さま、今日も、もう一日おまけの日を下さって有難うございます。」 何と素晴らしい生き方でしょう。
 

ハップは人との出会いをいつも楽しんでいました。以下は、以前このウエブサイトに掲載した写真です。

        

故ロジャー・マンセル氏と故トム・ラントス下院議員夫妻訪問(2005)       吉田麻子さんと(2006)