ウォルター・ライリーの物語

以下の記述は、私の家族に関する、そして第二次大戦中に日本軍に収容されたことに関する私の記憶の一部です。私の父のヘンリー・D.ライリーは、1881年アラバマのコーリングという町で生まれました。祖父はビブ郡の炭鉱で働いていました。父は炭鉱で働きたくなかったので、海軍に入りました。任務期間が終わろうとする時、彼が乗っていた船はフィリピンに停泊していて、オランガポにあるフィリピン米海軍基地で働かないかとオファーされた彼は、それを受けました。

私の母のほり・ゆりえは、1895年日本の呉で生まれました。父が話してくれた話によると、二人の出会いは次のようなものでした。彼は、妻帯者の同僚の家での夕食に招待されました。その家に向かって歩いていく彼は、これまで見た中で最も美しい女性が、窓辺に座って長い黒髪をとかしているのを見ました。彼は一目で恋に落ち、彼女と結婚すると決心したのです。その女性が私の母で、彼女の叔母を訪ねてきていたところでした。

最初、母は殆ど英語を、父は殆ど日本語を話しませんでした。でも愛の力でそれを乗り越え、フィリピンと日本の間で彼女の両親の承諾を得るための交信が何度か交わされた後、二人は1913年に神式とキリスト教式で結婚しました。

母は独学で、英語・スペイン語そしてフィリピンの公式言語であるタガログ語を学びました。

                                    
   10代の終わりか20代の最初の母

1932年に私が生まれるまでには、両親はマニラ湾にあるカビテ に移っていて、私の上には二人の兄と5人の姉がいました。私の後に妹が一人生まれたのですが、一歳の誕生日を迎える前に亡くなっています。

カビテ島の約半分は、父もその建設に関わった米海軍の基地で、残りはカビテ市の一部でした。私たちは、ベランダから小さな公園が見渡せる二階建ての大きな家に住んでいました。その公園の向こう側は、通りと防波堤そしてマニラ湾でした。

母はとても小柄で父は180センチありましたが、家の中のことは彼女が取り仕切っていました。彼女はとてもやさしくて親切な人でしたが、子供たち全員が行儀作法を身につけ、学校に上がる前に読み書きと基礎的な算数を覚えることを、望みました。彼女は料理が大好きで、大家族の私たちと召使たち、そして土曜日の夜や休日によくやってくる多くの客の為に、料理していました。彼女はどこかで何かを味わうと、帰宅してからそれを再現するか、もっと美味しく料理する才能を持っていました。

第二次大戦前、マニラは多くの国の人々の坩堝で、東洋の真珠と呼ばれていました。空路からも海路からも入れる、ビジネスの重要なセンターでした。暮らしは1941年の半ばまでは最高でした。その頃、カビテ海軍基地で働いていたほとんどのアメリカ人の子供たちは本国に帰り、私が通っていた学校が閉鎖されたのです。

私たちはパスポートを用意しましたが、父は、日本との交戦の事態に備えるためにとても忙しくしていました。フィリピンを離れることはできないと父が言うと、母は、私たちだけが出発する訳にはいかないと言って、全員が残ることになったのです。
      
ウォルター (5歳)

1941年度の新学期、下の三人の姉と私は、マニラにあるボードナーという学校に転校しました。私は、人々が「冬に戦争を始めるやつは誰もいないよ」と言っているのを聞いた記憶があります。彼らはいつも春まで待つ、ということでした。

12月8日月曜日、真珠湾が攻撃された時、私たちは学校にいました。外が騒がしいので窓から見ると、サイドカーのついたオートバイに乗った男がやってきて、学校の前で止まるのが見えました。彼は学校の中に入ると数分して、彼の息子と出てきて、そのままオートバイで立ち去りました。間もなく学校は下校になり、それがボードナー学校での最後の日となりました。

帰宅した父が、カビテは爆撃されるだろうと告げ、私たちは直ちに田舎に疎開することになりました。他の何組かの家族も一緒に出ることになりました。

引越しが済んだ後、父と兄、義理の兄、そして姉の一人が、重要物資を一刻も早くカビテからコレヒドールに輸送する仕事に従事するため、カビテに車で通いました。私たちは、日本の爆撃機がマニラとクラーク飛行場に向かって飛んでいくのを、見ました。対空砲は、届きませんでした。

12月10日、カビテが爆撃されました。私たちは、皆が帰ってくるまで不安でした。彼らは打撲傷を負って震えていましたが、重傷ではありませんでした。でも、父の隣に立っていた男が、死んだということでした。父は、焼け残った物資でまだ使えそうなものを全て運び出すまで、仕事に行っていました。でもそこで起こったことを話すことは、決してありませんでした。          爆撃を受けるカビテ米海軍基地

マッカーサー将軍がマニラを非武装地帯と宣言した後、誰かが何室か空きのあるアパートを見つけ、私たち全員がマニラに移ることになりました。引っ越すことにした理由の一つは、田舎では、フィリピン人の盗賊が家に入らないように男たちが夜を通して見張らなければならず、翌日は寝不足のまま、そしてたぶん爆撃を受けるだろうと知りながら、仕事に出なければならなかったからです。

マニラに移った後、フリーメイソンの指導者だった父は、他のメイソン会員やその家族を助けるために尽力しました。戦後彼は、33階級(フリーメイソンの最高名誉位)を与えられましたが、それはおそらく戦時中の彼の行動によるものだと思います。でも彼は、それについて語ることはありませんでした。

日本軍がマニラに入った時、3人の兵士が私たちのアパートにやってきました。彼らは、私の母が日本語で応答したので、驚き嬉しそうでした。でもすぐ一人の将校が、母を殴りかねないくらいの剣幕で、怒りました。後で母に理由を聞いたところ、どちらがこの戦争に勝って欲しいかと聞かれたので、アメリカだと答えたのだそうです。

彼らは、父と義理の兄をサント・トーマス民間人収容所に連行していきましたが、残りの私たちは日本人なので、一緒には行けないと告げました。母は、一緒に連れていってもらいたいと掛け合いましたが、駄目でした。日本軍が行政府を設置するやいなや、母は子供の一人を連れて出かけ、日本人高官に、私たちはアメリカ人でありサント・トーマス収容所に入れられるべきだと、訴えました。

父がサント・トーマスに収容されている間、母は私たち9人の面倒を見ました。私たちはみんな助け合いましたが、彼女は父の助けを得られなかったのです。私の主な仕事は、歩き始めたばかりの姪と私の犬の世話をすることでした。母と一緒に買い物に行ったり、日本人高官にサント・トーマスに入れて欲しいと頼みにいったりもしました。彼女がいつも落ち着いて見えたことは、私たち全員が非常に恐ろしい状況に対処するのに、役立ちました。

彼女は、ついに話を聞いてくれる日本人高官を見つけ、私たちがサント・トーマス民間人収容所の捕虜となることに、同意してもらえました。収容所では、別の部屋になりましたが、父と私はメインビルの同じ部屋になりました。

父は既に体重が減り始めており、母は、義理の兄が育てた野菜や売り子から買った食糧を父の食事に足そうとしました。でもすぐお金がなくなり、日本軍は売り子が来ることを禁止してしまいました。サント・トーマスでの生活は、少年にとって最初はそれほど悪くありませんでした。優秀な先生が教える学校があり、走ったり遊んだりする場所もたくさんありました。

戦況が連合軍に優勢になるやいなや、食糧が不足して食事はまずくなり、規則は増え厳しくなりました。いろいろな活動は縮小されましたが、私たちは飢えかかっていましたので、活動をする気にもなりませんでした。私は13キロ近く痩せ、父は45キロも痩せてほとんど歩けなくなりました。私は彼に食事を運び、トイレに往復するのを助けました。私の兄が、父の面倒を見るのを助けるために教育棟から移ることを、許されました。父は多くの時間をベッドで過ごしていましたが、毎晩部屋の外に座り、他の年配の収容者と料理の話などをしていました。

私は、アメリカ軍がマニラに戻ってきた日のことを、覚えています。私たちは、日本軍が空中戦の訓練をするので、特に驚かないようにと、前もって言われていました。私たちのクラスは、メインビルの4階にある教室に移動するところで、外を歩かなければなりませんでした。吹き抜けから出て、飛行機を見ようと空を見上げると、翼が壊れているような飛行機が見えました。飛行音も違って聞こえ、翼と本体に白い星が描いてあったのです。私たちが見守る中、それらの飛行機は日本軍の飛行機めがけて撃ち始めました。先生は慌てて私たちを階段からビルの中に連れ戻しました。それがサント・トーマスでの学校の終わりでした。

それまで小さな空母 USS Langley しか見たことがなかった私は、米軍がルソン島に上陸して飛行場を作ったに違いない、そして私たちも数日のうちに解放されるだろうと、思いました。それはとんでもない間違いでした。飛行機はもっと大きな空母から飛来していて、米軍はルソン島にまだ上陸していなかったのです。そして、私たちが米軍兵士を見るのは、それからさらに数ヶ月先のことでした。

学校が閉鎖になり、食糧も底を尽き、規則や監視員の態度が厳しくなり、収容所の生活はとても惨めなものになっていました。父は瀕死の状態でした。幸運にも、私たちを救出するため、マッカーサー将軍が主力部隊の前に第一騎兵部隊の一部を送ってくれたのです。

陸軍が飛行場を確保していなかったため、マッカーサー将軍は海兵隊の航空管理官ロバート(ボブ)・ホーランド軍曹と数機の艦載機を、マニラ進攻の援軍として任命したのです。私は2002年にボブに会うまで、私たちが50年代に同じテキサス・インスツルメント社で働いていたことを知りませんでした。

一旦騎兵部隊がサント・トーマス収容所から日本軍を追い出せば、マニラは開放されると、私は考えました。またしても、それは間違いでした。

数日後、メインビルの前のスクリーンで映画が上映されると、アナウンスがありました。私は両親がよい席で観れるよう、折りたたみ椅子3脚を運び込んでいました。すると迫撃砲がメインビルに打ち込まれ始めたのです。私が外にいる間、私の隣の部屋に命中し、父と兄が無事かどうかすぐには分かりませんでした。幸運にも、彼らは無傷でした。

数日して、私はデング熱にかかり40度の熱が出て死にそうになりました。私は、病気になったことも教育棟の病院に移されたことも、覚えていません。目が覚めたとき弱ってはいましたが、回復していました。

家族は義兄と姪を入れて11人でしたが、全員が生き延びました。父は完全に健康を取り戻すことなく、アメリカに帰国したとき、政府の仕事から引退しました。私たち全員が生き延びたことは、奇跡のようでした。その裏には母の功労があったと思います。彼女の決意と勇気があったからこそ、私たちは米軍がマニラに戻った日を生きて迎えることができたのです。私たちがサント・トーマス収容所の外に居たなら、マッカーサー将軍がしたように、マニラを非武装地帯と宣言しなかった日本軍による殺戮で、きっと殺されていたでしょう。

マニラ地域を指揮していた日本の将軍が、非武装地帯宣言をした後、彼の部隊を連れて北部の山岳地帯に退却したと、私は理解しています。船を米軍の艦載機に沈められた海軍提督が、水兵たちと共に最後まで戦う決心をし、その過程でマニラを破壊したのです。
                                   
サント・トーマス収容所解放 (1945年2月)

私たちが以前住んでいたマニラのアパートの所有者の息子は、銃剣で刺され置き去りにされました。彼は何とかサント・トーマス収容所の正門まで辿りつき、監視員に兄の名前を告げました。兄が正門まで行って彼が知人であることを認め、私が居た教育棟の病院まで連れてきました。私たちはどちらも生き残りました。

マッカーサー将軍がサント・トーマス収容所を訪問した時、徐々に回復しつつあった父を見舞ったと聞いています。父は、戦前マッカーサー将軍がメイソンの指導者になるのを助けていました。戦後彼らはどちらも、33階級を与えられました。父はフリーメイソンの会員であることを、とても誇りにしていました。父はまた、沈められた日本船でいっぱいのマニラ湾を清掃する仕事をして欲しいと頼む海軍将校の、訪問を受けていました。母はノーと宣言し、私たちは全員アメリカに帰ることになりました。

1950年代、私が海軍にいた頃、乗っていた駆逐艦が何度かマニラに立ち寄ったことがありました。港にはまだ沈没船があり、市街戦で破壊されたビルはそのままでした。サント・トーマス大学に行ってみると、それは大学として復旧されていました。父と兄と私がいたメインビル3階の部屋に行ってみると、それは化学ラボ室に戻っていました。それがかつて収容所であった形跡は、見つけることができませんでした。

全員が旅行できるほど元気になり、私たちはマニラから船に乗りました。レイテ湾で一泊した後、船団に加わって米国に向かいました。私が覚えているのは、豊富な食べ物と潜水艦の恐ろしさと、ルーズベルト大統領が死んだという発表でした。ハリー・トルーマンが誰なのか、私は全く知りませんでした。

サンフランシスコに上陸すると、私たちは海軍の担当者に出迎えられ、トレジャー島に車で連れていかれました。彼らは私のつま先から頭のてっぺんまで調べました。

私たちはそこに1週間ほど滞在しましたが、私が基地に不案内だったので、一人の水兵がどこに行くにもついてきました。私は、医師が父に、飢餓が成長途中の子供に与える影響について、説明しているのを、立ち聞きしました。それで私は、自分は長生きしないのだ、と思うようにになりました。今や私も70も半ばになりましたので、そんな考えは忘れることができます。                                             

                                          ウオルター(1946年頃)

      

                  1950年初めの両親                     両親とウォルター(1953)

私たちが開放されてから、60年以上の年月が過ぎました。その間、私は第二次大戦のことを話しませんでしたし、時間が私の記憶を消し去ってくれることを望んでいました。でもそれは起こりませんでした。それで私は、戦争についてもっと学び、何が起こったのかもっとよりよく理解できるか見極めてみようと、決心したのです。その過程で、私は自分の体験を語るようになり、感情的にならずにそれができることを、発見しました。 当初、私は日本人を憎んでいましたが、海軍に勤務中に日本を訪問し、平均的な日本人が邪悪な戦争好きではないことを、認識しました。また、私が全ての日本人を憎むなら、自分の母、兄、姉そして自分自身をも憎まなければならないことに、気付きました。日本人は、ドイツ人がそうだったように、彼らの指導者に騙されていたのです。私が理解できないのは、なぜ日本政府が、第二次大戦中の戦争捕虜と民間人捕虜の取り扱いに関して、決して謝らないのかということです。

いつ「アメリカ元捕虜の会」に入会したか覚えていないのですが、私は長い間どの支部のどの会にも行きませんでした。ある日、ダラス支部の会員から電話がかかってきて、妻と一緒に彼らの月例会に招待されました。その頃私は既に引退していて、コンサルタントとボランティアしかしていませんでしたし、妻も行ってみたいというので、でかけることにしたのです。

出席してみると、会員は親切で、食べ物も美味しく、講演も興味深いものでした。一回参加した後コマンダーから、次の会で私の戦争体験について話して欲しいと、頼まれました。私は、自分の体験は軍人捕虜の体験に比べられるようなものではないと感じ、躊躇しましたが、彼は是非話すようにと言いました。私の講演が終わった後、何人かの元軍人捕虜が、私が子供だったことを考慮すると、私の体験は彼らのものよりもっと酷かったと、言いました。それ以来、私は活発に活動するようになり、友人もたくさん出来、州と全米大会にも何度か参加しました。元軍人捕虜からあまりよく扱われていないと感じている元民間人捕虜と話したことがありますが、私自身はそんな風に感じたことはありませんし、そのようなことは例外だと信じます。

母は、日本人に対して悪感情を抱くことは決してありませんでした。1961年4月に父が死んだ後、彼女は、子供たちや孫を訪ねて旅行をし、もっとアメリカを見て歩きたいと、決心しました。家を売りに出し、アパートか二軒長屋の家を探し始めました。彼女が引っ越した後、私と妻が訪問すると、彼女は長屋の別の側に住む家主を紹介してくれました。彼らは日本人でした。母は最初に彼らと会った時、日本語がなかなか思い出せなくて恥ずかしかったそうですが、その後たちまち思い出し、彼らと流暢な日本語で話していました。彼女はあちこち旅して訪問することを、楽しんでいました。彼女は家族をとても誇りにしていて、遠く離れて暮らしていても、私たちがみな仲良くし続けることを願っていました。

オリジナルの家族でまだ生存しているのは3人だけになりましたが、子孫は東海岸から西海岸まであちこちに住んでいます。そして私たちは近況を知らせあい、訪問し合っています。

母は毎年元旦に特別な料理を準備し、友人や家族を呼んだものです。それが日本の慣習なのだろうと私はいつも思っていましたが、母に聞いたことはありませんでした。二人の姉と私は今も、その慣習を続けています。

両親が生きている間に、もっといろいろなことを聞いておけばよかったと思いますが、私は末っ子で、それをしないままでした。

私には二人の兄がいましたが、母は私が小さい頃、長兄のジミーにはエレクトリカル・エンジニアに、次兄のヘンリーにはメキャニカル・エンジニアに、そして私にはシヴィル・エンジニアになって欲しいと言っていました。兄のジミーはアメリカの大学に入り、エレクトリカル・エンジニア学位に必要な全ての単位を終了しましたが、肺炎にかかり、学位を受け取る前に亡くなりました。

兄のヘンリーは、アメリカの大学に入る前に1-2年働くことに決めたのですが、戦争が始まってしまいました。戦後、大学に入るには年をとり過ぎたと思った彼は、カリフォルニア州アラメダの海軍基地で働きました。

私が海軍で働いていた時、技術訓練校に何度か送られましたが、私は大学に入ってエレクトリカル・エンジニアになりたいと、決心しました。母にそうしてもよいか尋ねると、彼女はしばらく考えてから、いいよと言いました。1962年、学位授与式のステージを歩く私の姿を母に見てもらえたことは、私にとって最も興奮する一瞬でした。母は1972年に亡くなりました。

日本軍に収容された年月にも関わらず、私はよい人生を生きてきました。素晴らしい家族と3人の子供、4人の孫に恵まれました。一つの会社に35年間勤め、最新の電子製品の開発に関わりました。そして捕虜だったことの恩恵は、アメリカ元捕虜の会の会員になれたことです。多くの素晴らしい人々と出会いました。

これで日本政府が謝罪してくれさえしたら、と思います。
 

マーガレット&ウォルター・ライリー