メルビン H.ローゼン
1918年マサチュセッツ州グロースター生まれ

- 米陸軍野戦砲第八八軍第二大隊
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バターン死の行進、「鴨緑丸」「江の浦丸」「ブラジル丸」
仁川捕虜収容所

 
インタビュー・ビデオ - High Quality / Low Quality
時間 4:19
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フィリピン着任

私は1940年、ウエストポイントの合衆国陸軍士官学校を卒業しました。私の両親はロシアからきた貧しい移民でした。私は米国陸軍の少尉に任官されたことを、非常に誇らしく思ったものです。

私は、アメリカは、日本との戦争に追い込まれていくという予感がしていました。私の意見では、日本が理論的に攻撃しそうな場所はフィリピンだけでした。私はそのことを確信していましたので、他の全ての者もそう確信し、その地に最高の設備・補給などが設置されるに違いないと思ったのです。

私は1941年1月、旧式の輸送船グラント号でマニラに到着しました。陸軍航空部隊が、本土では時代遅れになったP-26, O-46, B-10 を飛ばして、私たちを歓迎してくれました。私と同じ理由でフィリピン配属を希望した私のクラスメートでルームメートでもあった親友が、グラント号の甲板で私のそばに立っていました。私は彼に向かって「マーフ、僕たち捕まちゃったね。」と言ったのを、今でも覚えています。

バターン陥落

1942年4月8日の深夜、私は大隊長から、バターン軍は翌朝6時をもって降伏すること、日本軍が米兵をバターン半島から他所に移動させる際に必要になる乗り物以外の武器・設備を破壊すること、を告げられました。私は全ての武器と設備を破壊し、乗り物を保持しました。6時になると、私のいた小道から主要道の方で日本軍がまだ銃を撃っている音が聞こえました。私が偵察に行くと、日本軍のタンクが路上でアメリカ兵を撃っているのが見えました。

9時頃、私はまた主要道に行ってみました。そして、アメリカ兵がトラックに乗り、白い布を振りながら道路を走ってくるのを見ました。日本軍は彼らを制止して下車させ、トラックに日本兵を積み込むと、向きを代えて南に向けて走り去っていきました。私は急いで自分の隊に戻ると、全てのガスタンクに砂糖を注ぎ込みました。それから私たちは隊を組み、小道から主要道まで行進し、日本軍の司令官に降伏したのです。彼は、私たちを、道路に沿って、アメリカ兵とフィリピン兵で既にごった返する広場まで行進させました。日本軍は、直ちにフィリピン兵をアメリカ兵から引き離しました。

日本兵がどんな人々であるかを知る機会はすぐやってきました。それはアメリカ兵が大きいしゃがみ式の便所で用を足そうとしたときでした。日本人の見張りが、何の理由もないのに戯れで、銃剣でその男の胸を後ろから刺したのです。銃剣はすぐ男から抜けず、見張りはアメリカ兵に足をかけて銃剣を抜きながら、便所の汚物の中に突き落としたのです。この間、近くにいたもう一人の日本人の見張りはずっと笑っていました。

翌朝になって日本軍は、主要道を北に向けて私たちの隊を行進させ始めました。厳しい熱帯の暑さの中を65マイル歩かされた4日間、私たちは食事も水も与えられませんでした。お互いを助けることも、誰も許されなかったのです。もし自力で歩けなくなった者がいれば、彼は銃剣で刺されるか、撃たれるか、首を刎ねられるか、或いは棒で殴られて殺されました。私たちに食べ物や水を手渡そうとしたフィリピン市民でさえ、見せしめとして即座に鷁首されました。これが後に「バターン死の行進」として知られるようになったのです。行進が終わったとき、その道端には何百人ものアメリカ人と何千人ものフィリピン人の死骸が散乱していました。

オドネル捕虜収容所

オドネル捕虜収容所はもともと、フィリッピン陸軍の部隊を万人に増強するために仮建設中の施設で、まだその時点で完成していませんでした。万人を収容するのに必要な水や衛生施設さえ完備していなかったのです。そこに突然、飢え消耗しきったうえマラリアや赤痢に冒された千人が詰め込まれたのです。

私たちの軍医は、私たち同様に弱りきっていましたが、それでも“病棟”を設置しようとしました。“ゼロ病棟”というのも設置されましたが、その名前の理由は、一旦そこに入れられたら回復のチャンスはゼロだったからです。私もそこに入れられたのですが、そこに居たら既に冒されているよりもっと多くの病気にやられると気づき、自分で歩いて出ました。私たちは、溝をただ掘っただけの便所を作り、そのそばに寝起きしました。日本軍は、各人がバターン死の行進を終えた日(私の場合は194214日)から1942月の第週まで、私たちをそこに収容していました。それからアメリカ人はカバナツアン収容所に移動させられました。オドネル捕虜収容所いたヵ月足らずの間に、私たちは1,500人の仲間を葬りました。フィリピン人は、さらにヵ月後に釈放されるまでオドネル収容所に置かれましたが、通算ヶ月で2万6千人のフィリピン人がオドネル収容所で死亡したのです。

地獄船「鴨緑丸」「江ノ浦丸」「ブラジル丸」

1944年12月13日、私を含めた1619人は、マニラ湾で「鴨緑丸」に乗船させられました。この船には10mx17m位の大きさの船倉が3つありました。私は一番(前方)船倉に入れられました。600人以上の男たちが、一つの床窓以外には換気装置もない金属の船倉にすし詰めにされたのです。用便の施設も全くありませんでした。私たちは空になった食事用のバケツを使いましたが、あっという間に溢れてしまいました。

翌朝、"捕虜輸送中"の印を付けていなかった「鴨緑丸」は、米海軍の急降下爆撃機による攻撃を受けました。夜になる頃には船倉の中は真っ暗闇で、飢えと乾きで気が狂う者もでてきました。彼らは完全に頭がおかしくなり、尿を飲んだりしました。私自身は見ませんでしたが、他の者を殺しその血を飲んだ者もいたと思います。船倉そしてそこに閉じ込められた人々の状態は、筆舌に尽くしがたいものでした。

12月15日、爆撃機が攻撃を再開すると、日本人の乗組員と乗客は私たちを残して船から避難しました。生き残った私たちは、燃えあがる船に閉じ込められて沈んでいくよりは、床窓から出て銃撃を受ける方がましだと決断し、できるものは梯子を上って床窓から出ました。生きている日本人の姿はなく、目に入るのは死んだ日本人だけで、水もありませんでした。船べりに行ってみると、私たちは陸から800メートルほどのところにいることがわかりました。私は今でも、飛び込んだときの水がいかにさわやかで気持ちがよかったか、覚えています。私はマサチュセッツ州の(海辺の町)グロースターで育ち、歩く前に泳げるようになっていました。私たちの何人かは、泳げない者を船の周りに浮いていた窓のカバーなどに押し上げ、陸に向かって押していきました。

日本人は、私たちを駆り集めると、私たちが泳ぎついたオロンガポ海軍基地のテニスコートに収容しました。実際その浜は、戦争が始まる前に私がよく陸軍の看護婦をピクニックに連れてきていた場所でした。日本人は、生き残った米兵捕虜をこの焼け付くようなテニスコートに、食べ物を与えず数滴の水で、3日間留め置いたのです。彼らはその後2日間、一日あたりスプーン一杯半の生米を私たち一人一人に支給しました。私たちはそれからリンガエン湾に移されました。

12月27日、私たちは、船倉いっぱいに積まれていた馬が降ろされたあとの「江ノ浦丸」に、押し込まれました。船倉には、馬の汚い糞があちこちにあふれていました。食べ物と水は相変わらず足りませんでした。再び用便の施設は無く、船倉はみるまに人糞と尿で覆われていきました。飲み水さえ充分にないのですから、体を洗うことなどできません。それで赤痢がさらに蔓延することになりました。

1945年の元旦、私たちは台湾の高雄港に到着しました。1月9日、米海軍の急降下爆撃機が再び私たちの船を見つけたのです。私たち10人の将校グループは、船倉の後部にいました。水を汲む順番が回ってきたので、私はもう一人の将校と一緒に給水場に向かいました。私たちのグループに割り当てられるのは水筒のコップにたった一杯分だけでしたが、半分づつ運んで、もし私たちのどちらかがつまづいたりしてコップを落としても、全部の水を失わないですむようにと、思ったのです。

ちょうど私たちが水を配給されたとき、甲板の対空砲が火を吹きました。私は「ただの訓練だ。水を落とすな!」と叫んだことを覚えています。我に帰ると、船倉には死体や負傷者がいたるところに溢れ、大混乱となっていました。自分のグループはと振り返りると、頭上にあった巨大な梁が彼らの上に倒れ落ちて、全員が死んでいました。私は右横腹と右かかとに破片が刺さり、そこから出血していました。日本軍は、既に死んだ仲間と死にそうな仲間と一緒に、私たちを48時間もの間、船倉の中に閉じ込めていましたが、その後、網を下ろして来たので、私たちはそれに多くの死体を積み重ねて入れました。「江ノ浦丸」を後にするまで、私たちは200人の仲間を失ったのです。

私たちは3隻めの船「ブラジル丸」に乗船させられ、1月14日に高雄を出航しました。「ブラジル丸」上で死ぬ捕虜の数は毎日20人から40人へと増えていきました。南国のフィリピンから出発した私たちは、今や床窓から雪が舞い込む東シナ海を航海していました。捕虜たちは凍りつき、飢え、乾き、そして無数の病気で死んでいったのです。その時点まで私は何とかウェストポイントの卒業記念指輪を隠し持ってきましたが、水筒半分の油っぽい水と交換に日本人監視に取られてしまいました。今回も用便施設はなく、船倉は糞尿や吐しゃ物がかかとの高さまで溜まっていました。

1945年1月28日、「鴨緑丸」でマニラを出た1619人のうち400人ほどが、何とか生きて門司にたどり着きました。日本兵が船から生存者を下ろし、何人かの体重を計りました。私の体重は40キロ(88ポンド)きっかりでした。通常なら155ポンドが私の体重だったはずなのですが…。

開放後

開放されたとき私は、日本人が仁川と呼び、朝鮮半島の人々がインチャンと呼ぶ場所にあった捕虜収容所にいました。1950年以前は、Koreaという名前を聞いたことがあるアメリカ人はほとんどいませんでしたので、米軍は私たちがどこにいるかわからなかったのです。私たちも、戦争が終わったことを知らずにいました。米軍の飛行機が8月28日ころ私たちを発見し、米軍部隊が収容所に入ってきたのは9月8日でした。戦争に勝ったことを知った時の天にも昇るような喜びと誇りは、とうてい言葉では言い表せません。その後に、生き残ったのだという大きな安堵感がやってきました。最後まで生き抜いたのだと…。

私は1970年12月まで陸軍に在籍しました。1947年に結婚し、二人の素晴らしい子供を授かりました。陸軍 Command and General Staff Collegeで学び、4年間そこで教官も務めました。陸軍War College で学び、ジョージ・ワシントン大学で修士号も取得しました。私の最後の任務は機関砲のポストでした。その前には、韓国で1万4千5百人の部隊を指揮しました。私の軍歴はいくつか素晴らしい任務に恵まれ、後悔はほとんどありません。

振り返って

当時は戦争でしたし、私がそのために訓練されたことは確かですが、それでも私たちには、人道的にかつ国際法に従った取扱いを受ける権利があったはずです。戦争中であろうがなかろうが、あれほどの人種差別・残虐さ・拷問・残忍さを受けることになろうとは(そして現実に受けるとは)私たちにはとうてい想像のできないことでした。


日本人研究者から

メルビン・H・ローゼン様
あなたの手記を読み、日本人として深い心の痛みを覚えております。

私は7年ほど前から、連合軍捕虜に関する調査をしています。そのきっかけは、私の家(横浜)のすぐ近くにある英連邦戦死者墓地でした。ここには、戦時中に日本国内の捕虜収容所で亡くなった英連邦の将兵1700人余り(日本で死亡した捕虜の約半数。残りのアメリカ人とオランダ人の遺骨は母国に持ち帰られたという)が埋葬されていますが、ここが捕虜の墓地であることも、捕虜たちがどんな苦難を体験したのかも、ほとんどの日本人は知りません。じつは私自身もその1人でしたが、7年前に初めてその事実を知り、大きな衝撃を受けました。そして、このことを多くの日本人に伝えなければと考え、捕虜の調査に取り組み始めたのです。


横浜英連邦戦死者墓地

この墓地に眠っているのは基本的に英連邦の人々ですが、納骨堂にはアメリカ人48人とオランダ人21人の遺骨も葬られています。なぜ彼らがここに眠っているのか長く謎でしたが、最近思いがけない事実が判明しました。アメリカ人の大半が鴨緑丸の乗船者だったのです。そうです、あなたが乗っていた船です。あなたは鴨緑丸と江の浦丸とぶらじる丸を何とか生き延び、日本の収容所を経て、朝鮮・仁川の収容所で終戦を迎えたとのことですが、横浜の墓地に眠る人びとは、門司港にたどり着くと同時に力尽きて死んでいった人びとでした。あまりにもたくさんの死者が出て、遺骨が識別できない状態になったため、母国に持ち帰ることができず、横浜の納骨堂に合葬されたということです。                                                        
 

鴨緑丸の乗船者たちがいかに悲惨な体験をしたか、私は様々な資料で知りましたが、あなたの手記を読んでさらに痛恨の思いを深めています。日本が捕虜に対して人道に反する行為を行ったことは、大きな罪でした。このような過ちを2度と繰り返さないために、私たちが何をすべきか、私はいつも考えています。

そのための第1歩は、まず事実を正しく知ること、そしてそれを多くの日本人に伝えていくことだと思います。この夏、私は『連合軍捕虜の墓碑銘』という本を出版しました。捕虜たちの実態を様々なエピソードで綴ったもので、鴨緑丸についても書いています。

また、2年前に発足したPOW研究会 http://homepage3.nifty.com/pow-j/ の仲間たちとともに、様々な活動に取り組んでいます。その1つが日本国内で死亡した捕虜三千数百人のリスト作りで、まもなく完成予定です。彼らの死亡日、死亡地(収容所)、死因などが記されており、捕虜たちがどんな扱いを受けたかが生々しく伝わってきます。私たちはこれを貴重な歴史資料と考え、私たちのホームページを通じて国内外に公表していくつもりです。また、捕虜の遺族の中には、自分の夫や父や祖父がどこどのようにして亡くなったかわからない人も多く、その方々にもぜひ役立てていただきたいと思います。すでに一部完成したリストによって、家族の死の経緯が初めてわかったという報告も届いており、嬉しく思っています。私たちの努力が双方の和解と相互理解を少しでも進め、愚かな戦争やそれによる惨禍を防ぐために役立つことを願ってやみません。                           

笹本妙子    
 



最近のローゼン氏


*ローゼン大佐は2007年8月1日に亡くなりました。 (ローゼン大佐の思い出