サント・トマス民間人収容所の開放

米軍は1945年2月3日、3,700人の連合国民間人が収容されていたマニラのサント・トマス大学に到達した。数日間の日本軍の抵抗の後、収容所は解放された。

                

開放の様子を伝えるビデオ: Santo Tomas prisoners liberated

現在サント・トマス大学在学中のMichael Reyes pinnoy@gmail.com  Youtube ビデオ University of Santo Tomas during the 2nd World War

「ライフ」誌の著名なカメラマンだったカール・マイダンスは、自分自身も開戦直後サント・トマスに収容されていた人物だが、解放後に撮った以下の写真は1945年3月5日号の「ライフ」誌に掲載された。

(キャプション)飢えた二人の男が病院として使われていた大学の体育館の前に座っている。海軍のカビテ基地の元職員リー・ロジャース(左)と、炭鉱夫のジョン・トッドだ。ロジャースはサント・トマスに入所した時65キロあったが、今は40キロだ。トッドは80キロから46キロに痩せた。彼らの後ろに見えているのは、収容者が命を繋ぐために野菜を育てた畑である。

米連邦議会の記録によると、14,000人あまりの米民間人が日本軍に収容され、その10%が死亡した。フィリピンには、サント・トマスの他に、1945年2月23日に2,147人が開放されたラス・バニョスなど数箇所の民間人収容所があった。その他、中国や日本国内にも民間人収容所があった。それらの収容所からの生還者は、3年以上の人生や生活の糧、そして家や財産を失ったのだった。

私は1998年、そのような生還者の一人であるギルバート・ハイヤー氏に出合った。彼は、わずか9ヶ月だった1942年から1945年まで、サント・トマスに収容された。その後50年以上が経過していたにも拘わらず、彼の体が子供時代の栄養失調の後遺症に苛まれていることは、明らかだった。ギルの父親ジョン・ハイヤー氏は英国人だったが、日本軍がフィリピンを占領した時に米軍に志願して加わった。その後日本軍の捕虜となり、1945年1月に地獄船「江之浦丸」で亡くなっている。

ハイヤー氏は1990年、Center for Internee Rights, Inc. という団体を設立し、その目的を「日本軍によって残忍に扱われ、そしてその後は歴史から忘れられた者たちのために正義と認識を求めること」と定めた。それはやがて8千人もの会員を要する組織に育っていった。彼は自分の思いを私に告げたことがある。

「私は、父の最期がどのようなものだったのか高校生になるまで知りませんでした。それを最初に知った時、私は泣きました。夜も眠れないほどでした。今でもそのことを考えると、感情的になります。でも私は個々のケースや個々の犠牲者については考えず、大きな全体像を考えるようにしています。そうすることで、鈍感になることができるのです。鈍感にならなければ、感情的になり過ぎてしまいます。そして感情的になり過ぎると、それは思考にも影響を与えます。大勢の被害者を代表する私の団体のような大組織を動かしていくには、できる限り論理的で(悲しみに)鈍感になる必要があります。それが、私が知る唯一のやり方なのです。」
  ギル・ハイヤー氏 (1998年)

ハイヤー氏は、日本政府を相手取って被害者一人あたり2万ドル(米政府が日系人収容者に補償した額)の補償を求める訴訟の陣頭指揮をとった。それは1998年、東京地裁により棄却され、東京高裁・最高歳への控訴・上告も不成功に終わった。 (元捕虜が日本企業を相手取って米国内で起こした強制労働訴訟も2003年、米最高裁により棄却された。)

ハイヤー氏は2004年9月15日逝去した。63歳だった。彼が生前に何度か出した日本大使館への手紙には、1度も返事が来なかった。

今日、元民間人収容者達は、米国・日本の人々に彼らの体験を知ってもらう努力を続けている。彼らのウエブサイトは BACEPOW

当ウエブサイトでも以下の人々の収容体験が読める。
 
               
               
  サーシャ・ジーン・ジャンセン   ウォルター・ライリー  セシリー・マッ トクス・マーシャル  アンガス・ロレンゼン
 

サント・トマス収容所に関するドキュメンタリー
Victims of Circumstance: Santo Tomas Interment Camp

サント・トマス収容所に収容された家族