日本の戦後処理:もうひとつの闘い

伊吹由歌子

20061225日、日本海に面した港町、東舞鶴はこの季節に珍しい小春日和だった。高齢の男性旅行者が続々と列車からおりたち、戦後補償ネットワーク世話人、有光健さんの笑顔に迎えられた。ポツダム宣言を受諾した日本が降伏したのは815日。ソ連の対日参戦布告と満州への侵攻が89日。中国大陸東北部を占領し旧満州を支配していた関東軍最高幹部たちはいち早く情報をつかみ、家族と共に日本へ脱出したが、約60万といわれる日本軍人・軍属、満鉄の技師や女性の電話交換手までが、ソ連軍に強制拉致された。日本人だけでなく旧植民地出身の朝鮮人、台湾人兵士も含まれていた。
                                                              
寺内良雄氏と有光健氏  (舞鶴港で) 

823日、スターリンの命令により奥地への移送が開始され、戦後2年から4年、最も長い場合11年、多くは極寒の地で、ソ連とモンゴルにより無報酬の奴隷労働に強制的に従事させられた「シベリア・モンゴル強制抑留者」たちである。その1割、約6万人が捕囚のうちに栄養失調疾患、作業中の事故等で死亡したといわれるが、抑留総数、死亡者数ともに、これらの数字はもっと多いとも言われ確定していない。非常に広範な地域に収容され、体験もさまざまである。いまだ行方不明の未帰還者を待ち続ける家族もいる。(関東軍兵士はなぜシベリアに抑留されたか:E・カタノソワ著白井久也監訳 社会評論社2004年刊 最近発見された旧ソ連資料も論じる。)

1945823日のスターリンの極秘指令は告げる。「極東、シベリアの環境下での労働に、肉体面で適した日本軍捕虜50万人を選別、シベリアに輸送せよ。」鉄道建設や森林伐採、炭坑労働。指令には地区別に人数の配置計画が細かく記されていた。一方で関東軍総司令部最高幹部は「ワシレフスキー元帥への報告」に書く。「軍人の処置については、帰還するまでの間は、極力貴軍の経営に協力するようお使い願いたい。 」

生存者数は10万をきって平均年齢は84歳となり、この日、約70名が、南は鹿児島など20の県から集まった。ソ連からの引揚船が入港した舞鶴で引揚終了50周年の追悼式を行い二日にわたり抑留絵画展を開き、自分たちの存在と訴えを広く知らせるためである。「実際は役務賠償としての強制労働だった。日本は1951年日ソ共同宣言で補償の請求権を放棄している。エリツィン大統領は1993年心からの謝罪をし、労働証明書を出した。兵士の派遣国である日本政府により未払い賃金を支払い、奴隷労働ではなかったと証明してほしい。」有光 健さんは全国抑留者補償協議の世話役も兼任し、戦後補償全体を把握している。2003年には抑留者たちは、シベリア立法推進会議を結成し、野党に立法を呼びかけて戦ってきた。彼らの訴えはエッセイの項、池田幸一氏の言葉でさらに詳しく参照していただきたい。
http://www.us-japandialogueonpows.org/Ikeda-J.htm 
南方捕虜のうち1947年6月以降も収容されたものには、小額ながら連合国が証明書を発行し、収容所内での労働に対し日本政府から賃金が支払われている

チャーターされたバスで、舞鶴の旧桟橋へ。引揚いらい始めてこの地を訪れるひとも多い。静岡から参加の岩本兼次さんには辛く苦しい思い出がある。「私は家族6人を無残に殺したんです」引揚船をおりると同時に引揚援護局の役人に呼ばれ、満州の静岡開拓村に残して出征した全員の死を知らされた。関東軍に徴兵が決まり、母にも来てもらった。「信じたくないけれど、どういう状況で死んだかを、詳しく書き残してくれたひとがあったのでね。。。」涙をにじませ、口ごもる。

桟橋のたもとに立つ鐘が澄んだ音色を響かせ、野口富久三(とくぞう)さんがハーモニカで「異国の丘」を吹いた。「友よ、飢えに寒さに耐え倒れてはならない。国へ帰る日がいつか、くる」後に流行作曲家となった吉田正が益田幸治の詩に作曲。吉田が帰還してみたら、すでに故国で歌われていて驚いた。ついでバスは引揚記念館へ。戦後は人気歌手になった元抑留者、三波春夫など、多数の寄金により1988年にオープンした民間の記念館である。抑留生活が再現され、各地の墓地や記念碑の現在の写真もある。引揚船がはいるたび、息子を探しに出た端野いせさん。彼女は「岸壁の母」と呼ばれ、歌や映画に取り上げられた。息子さんが中国女性と結婚し、上海にいまも健在という噂もあったが、26日開催のフォーラムで、同じ部隊の戦友から彼の戦死が日付まで正確に証言された。このフォーラム参加者は100人を超し、抑留者と報道関係者で展覧会場は埋め尽くされ、元抑留者多数のほか、遺児2名、行方不明の夫を待つ尾崎利子さん(87)が発言した。「私にとって戦争は終わっていません。」

2003年に米元捕虜、レスター・テニー博士の著書を私たち教師仲間4人で翻訳し、「捕虜問題研究会」の支援でその出版記念会が東京で開かれた。テニーさんは捕虜として三井三池鉱山で強制労働に就かされた。その日、東京で大きな会合をもった全抑協のメンバー数人が、有光さんと共にそのパーティーに参加したのだが、大阪に住む池田幸一さんは、有光さん、徳留絹枝さんの仲介で、すでにテニーさんと出会っていた。テニーさんの言葉に感動した池田さんが徳留さんに依頼して手紙を届け、テニーさんはすぐに返事を書いて、池田さんの闘いにエールを送った。二人とも、優れた体験記を著している。過酷な労働生活のなかで高い精神性を保ち、演劇活動で仲間を励ました。また愛する女性を残して出征し、戦争によって無残にその仲を引き裂かれた運命も同じである。帰還してそれまで心の支えであった愛する者の存在をあきらめるという現実に直面したが、彼らは自分を失うことなく、過酷な運命に挑戦を続けてきた。人生に成功して隠退ののち、裁判によって人間性の回復と正義のために戦おうとする姿も共通している。

         テニー博士の出版記念会に参加した元シベリア・モンゴル抑留者

「捕虜」と侮蔑され、心と体への暴力に深く傷つけられたテニーさん。歯は総入れ歯、右脚と左肩の障害、鼓膜破裂による聴力障害、背中の傷痕、身障者パスを持つ。人間性を打ち砕く理不尽な暴力と精神的屈辱を認め、謝り、適正な労働賃金をと、日本政府・企業に求める。彼の訴訟努力は、米連邦最高裁と米政府の決断により却下され、裁判には至っていない。抑留者の最初の裁判が敗訴して後、池田さんは1999年から2004年、最高裁で敗訴するまで、日本政府を訴え続けた。その後、闘いのすべてをパソコンに打ち込み20067月に自らのホームページをオープンした:http://kamakiriikeda.hp.infoseek.co.jp/ 

池田氏が敗訴直後、ある新聞に送った投書がある。残念ながら掲載はされなかった。127日、私たちの闘いがまた一つ終わった。最高裁は「シベリア抑留」の未払い賃金請求を棄却し、深刻な人権侵害の回復もなされないまま敗訴が確定した。私は国の命令で召集され、スターリンの命令で拉致され、飢え、寒さ、強制労働で多くの仲間を失い、地獄の底から辛うじて帰還した。この民族始まって以来の悲劇はソ連に対する役務賠償の尊い犠牲であった。夜毎夢見た懐かしの母国はこの受難の兵士を暖かく迎えたであろうか。待っていたのは思いもよらぬ冷たさで、シベリア帰りはアカだアカだと敬遠され、GHQの指令で警察の厳しい取調べを受け、寒々とした苦しみと暮らしの辛さをなめさせられた。シベリア帰りは戦争が引き起こした被害者であると同時に、アカ呼ばわりされた冷戦の被害者であった。」朝鮮人元抑留者は日韓正常協定により、日本国籍と共に軍人恩給権も失った。日・米・韓の元捕虜たち、日本政府へ事実の認識と謝罪、正当な賠償を訴えて闘い続けるなかで、互いに連帯してゆきたいと、池田氏は願う。

大規模な抑留と長期の奴隷労働が、なぜ、日本の降伏後に起こったか。日本政府が十分な解明努力をした事実はなく、この政府が抱える未処理の戦後、いまひとつの課題である。12月、衆参両院で、野党が2004年に出した給付金案は否決され、「慰謝」の金品で抑留者の訴えに決着をつける与党案が可決された。元抑留者の闘いは続く。

寺内良雄会長(82歳)は不自由な足をかばいつつ、毎月、ニュースレターを国会議員の事務所に届けるため、列車で上京する。抑留者と有光さん編集のニュースレターは毎月、東京近郊の抑留者と数人のヴォランティアが、印刷、折込、帯封を貼って発送し、また議員たちに届けるのである。抑留地はコンソモリスク、19479月に帰還した。「金を寄越せばいい、という話ではない。奴隷労働の汚名を着せられたままでは、我々はあの世に行けない」。14日の記者会見で、野党案を否決し、「謝罪」も「補償」もないまま「戦後処理の幕引き」を口にする政府・与党の姿勢に憤った。「シベリア抑留の徹底した検証と正しい史実をきちんと後世に伝えたいと思う。国際人道、人権条約の国内定着について適切な対応を強く国に求めたい」

   
副会長の平塚光雄さん(79歳)は、15歳で海軍航空隊に志願し舞鶴海軍基地での訓練に始まり戦闘3年、北朝鮮元山(げんざん)の901海軍航空隊で敗戦を迎えた。ロシア北東部で伐採、炭坑、コルホーズなどの強制労働に従事した。300人から400人の仲間がおり、1.5割が死亡したがその8割は最初の冬。へび、蛙、食べられるものは何でも食べた。地域に幸い松の実があり、自分達の看守が焚き火で焼いて食べさせてくれたりして生き延びたと思う。194924歳で帰国したが、上陸時から警察に尾行され、職につけず、牛乳配達、新聞配達、そばやの出前持ちなどで食いつなぐ日々を2年余り送ったのち、東大生協に職を得て19年。次に喫茶店を開き、地元商店会長などを歴任した。1979年から強制抑留補償問題にかかわり運動を続けてきた。米議会で日本の戦後補償関連案否決のためロビー活動に多額を支払ういっぽうで、戦後補償を拒絶しつづける日本政府。この政府に誠意を求めて戦い続ける。韓国のシベリア抑留者たちの裁判が東京で現在続いており応援している。「米捕虜たち、[死の行進]では水も食べ物もなく、どこまで行くのだろう、殺されてしまうのか、と思い惑いながら歩いたんだろうね。同じだった、いつまでも。でも逃げようとでもしない限り、暴力はなかった。」次代に闘いを受け継いでゆける遺児たちを育ててゆきたいと願う。

江口十四一(とよいち)さん(82歳)は「ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会」(略称「捕虜体験を記録する会」)代表である。ハバロフスク地方のイズベストコーワヤ地区で約2年間の抑留生活を送り、伐採、木材運搬、鉄道路盤整備など、シベリア開発に不可欠のバム鉄道建設関連の労働に従事した。抑留地は内陸性気象状況のため、酷寒期にはしばしば零下45℃以下になり、風が強いときは、ただちに体感気温が50℃以下に下がった(その場合、零下40℃に上昇するまで作業は中止して待機した)。劣悪な食糧事情のため極度に体力が減退した捕虜にとって、酷寒期の重労働は過酷を極めた。
                             
収容所の所在地を地図で示す江口十四一氏

そのうえ衛生状況も悪く、捕虜たちは、伝戦病、熱病、栄養失調などに冒され多くの死亡者を出した、と江口さんは言う。ハバロフスク地方全体の死亡者は1
0,914人にのぼり、イズベストコーワヤ地区でも2,438人が13箇所の墓地に埋葬されている(村山常雄氏の調査による)。1947 11月に帰還した江口さんは就職難に苦しんだが、1950年代後半に図書編集者としての定職を得てからはその仕事に専念、80年代には「捕虜体験記」の編集にも携わってその責任を負い、19987月、全8巻を完結・刊行した。「捕虜体験記」は1998年度第46回「菊池寛賞」を受賞している。14日の記者会見で、江口さんは述べた。「なぜシベリア抑留が起きたか、その根因と全容を解明しなければならない。」

松原恒雄さん(87歳)は毎月のニュースレター発送・議員事務所配布作業も、今回の舞鶴行きも、いつも帰還後に結婚した夫人同伴である。徴兵されて北支へ。一度除隊となって後、鞍山製鉄にいた義兄夫妻に誘われて満州に渡り、現地で19457月に再召集された。500人が沿海州のセミョーノスクで伐採、農場などで強制労働。冬季は零下30℃が普通だった。10月になると海が凍り、今年も帰れないとわかる。飢えや病気で一夜で10人が死んだこともあり、150人が亡くなった。焚き火をおこし熱でわずかに溶けた表土をツルハシで掘り、仲間を埋めた。19491027日に帰還。シベリア帰りといわれて職がなく、親戚の製麺所で働いた。いまも視力も落ちず運転免許をもち、昨年は思い立って新車を購入したという驚異的な若さの持ち主である。「死んだ仲間たちのためにも、奴隷労働のままにしないよう、皆さん、一緒に頑張りましょう。」

野口冨久三さん(81歳)は海上追悼式でも「異国の丘」名演奏で参会者に抑留者の想いを伝えた。以下は毎日新聞2005422日の記事から:ロシア兵から「ダモイ・トーキョー(東京の家へ)」と言われ、シベリア鉄道と船で送られた先が朝鮮半島北部……。絶望のまま半年を過ごした。「2度捨てられた」と表情を変えて言う。1度はシベリアに送られた時。日本軍上層部も承知していたはずだと思っている。2度目は北朝鮮に送られた時。働けなくなった自分たちをソ連も相手にしなくなったにちがいない……。手元には、ソ連崩壊後の93年にロシア政府から受け取った「労働証明書」がある。労働期間はナホトカ港を出た46年7月25日で終わっている。 シベリア抑留の体験記は数多く残っているが、頑健でないとみなされ、27,000人が移送されたはずの北朝鮮での抑留体験は、ごくわずかしかない。いま機会あるごとに野口さんは体験を書き、また話す。

菊地敏雄さん(80歳)。148ヶ月で「プロパガンダに乗せられて」山形から満州義勇軍に志願した。「末っ子だった。母は内心反対だったろうね。現地に行ってから、しまった、と思った。」2ヶ月の内地訓練の後、19416月満州一面玻訓練所へ入隊と同時に、関東軍特別大演習に動員される。関東軍上層部は北進派、南進派に分裂しており、演習の美名に隠れて日本軍は満州全土に散在していたが、北進派が負け、動員解除された。その後、隊外勤務を命じられ、奉天の通信教育隊549部隊に勤務。816日、ソ連軍は無血入城し、913日投降した。抑留地はタシケントのアフガニスタン近く。1939年ノモンハンでソ連に捕獲された日本軍捕虜たちが器用で誠実とすでに好評を得ており、温暖な地での工場労働で過酷さはなかった。南京虫、また、マラリヤに苦しんだがロシア人看護婦におかゆにバタと砂糖をかけ流し込まれ、それで助かったと思う。1948719日舞鶴帰還。1959年精密機器会社を興し、現役である。テニーさんの著書も読んだが、連合軍捕虜に対する日本軍の対応は残忍極まる過酷労働、奴隷労働だった。捕虜たちの正当な訴えを聴かない日米両政府に対して更なる憤りを感じる。彼はまた旧満州に残された日本人婦女子に対し、1979年から故国へ帰国希望者の身元引受けなどに尽力してきた。

岡野工治さん(79才)昭和194月陸軍航空兵として入隊、ハルピンの飛行場で終戦。シベリア鉄道で、1026日、イジベストコーワヤへ着く。ハバロフスク州テルマ地区に約12,000人が抑留され、自分は伐採、線路工事、道路補修を半年づつ。その後細菌感染で野戦病院に入院、回復後は看護士となった。1943年に日本との戦争を見込んで陸軍が建てた病院で、常時外科6割内科490人ぐらいの患者がおり、ロシア人医師12人、日本人軍医2名、ロシア人看護婦60人がいた。現在、学校になっている。19496月に帰還。大学に復帰し、教員、また会社設立して今日に至る。ロシア語が話せることもあり、テルマ地区へ遺骨収集3回、墓参6回、イルクーツク地方の墓参1回。テルマは日本人抑留者が作った街との市民の認識があり、鉄道、道路、当時2,000人いた住民の住宅などの殆どを建設した。市民の歓迎があり、墓地も市が管理してくれる。憲法を改正し海外に自衛隊を派遣しようとする日本に言いたい、戦争に捕虜は付き物だ。抑留者を60年あまり放置し謝罪も補償もなしえない差別と無責任さを知ったら、自衛隊員はおそらく国の命令に従わないであろう。その対策は如何、と。

フォーラムの最後、中国戦線の日本軍を調査研究し、右傾化する教育に反対し、数多くの著書のある精神病理学者、医学博士、野田正彰関西学院大教授は、次の言葉で結んだ。「伝えることに関して、私は提案したい。皆さんのエネルギーの3割を聴くことに向け、同じく痛みを持つ他国戦争被害者の話しを聴いてほしい。これによって、訴えは深まり、運動は大きくなるでしょう。また、孫に語ってください。おじいちゃんの体験は確実に孫のこころに残ります。」

 

 

-- 伊吹由歌子氏は「捕虜:日米の対話」東京代表
 


シベリア・モンゴル抑留者の皆さんへ

ドナルド・ヴァーソー
元日本軍捕虜 (九州二瀬の炭鉱で強制労働)

戦争中私たちは、捕虜解放 という手柄をソ連が立ててくれないかと期待し、「スターリンさん、ソ連の兵隊さん、助けに来てください!」と叫んだものでした。でも、ソ連軍は、敵軍の大軍を大陸に張り付けておくこと以外は何もしませんでした。それなのに、自分達が戦いもしなかった戦闘の後、何十万人もの日本兵を捕らえたのです。

これらの兵士がどんな目に遭ったかを知り、当時日本兵は私たちの敵であったにも拘らず、私は、心が痛むほどの同情を感じずにはいられません。どんなにか辛かったろうに・・・。国籍がどこであろうと、捕虜の辛さは捕虜が一番わかるのです。

私はこれまで多くの人々に、「食べ物もなく、医療の助けもない、酷暑の夏と厳寒の冬を、いったいどうやって生き延びることができたのですか?」 と聞かれたものです。とても大きな質問ですが、簡単な答えは、「多くの者は生き延びることができなかったんですよ」というものです。彼らは病気や栄養失調や残虐行為で、死んでいきました。そのような状況下で、人間の身体がいったいどうやって3−4年以上持ちこたえられるのか、私にはとても理解できません。あと一冬捕虜生活が続いていたら、二瀬の捕虜収容所の捕虜は全員が死んでいたと思います。シベリア強制労働者が描いた驚くべきスケッチを見て、私は彼らの冬ははるかに厳しかったに違いないと思いました。

私たち太平洋戦争の捕虜は、見捨てられほったらかしにされました。ちょうど満州にいた日本兵と同じように…。いろいろな意味で、彼らと私たちは今でもその状態におかれています。兵士というのはみんな、愚かな外交の犠牲になるもののようです。

私は、シベリア・モンゴル抑留者の同志を思う気持ちに、敬意を表します。