戦争に引き裂かれ、友情で結ばれる

テリー・スマイス

terence.smyth@tiscali.co.uk
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空気はもう雨もようだが、まだ降り出してはいない。見渡す周囲に緑が活き活きと生茂り、その緑の色彩の何と多様なこと。

   「もうインタビューの用意はいいかと、記者の皆さんが聞いてますよ。」
   「もう少し歩き回って写真を撮る時間がもらえないか頼んでください。」
   「承知しました。」

201010月、ここ山口県大嶺町に、イギリスのサフォークから私は妻ラリーサと共に来ているのだ。1942年から1945年にかけて、父・エドウィン・スマイスはここで捕虜として生きており、近くの炭坑で強制労働させられていた。私の訪問時間は90分そこそこだろう。3年と90分。苦痛と苦悩のその3年間は、地元の人たちがこの空き地に1996年9月に建立してくれた、ささやかで、しかし敬意に満ちた記念碑により、現在、形となっている。 

1944年、180人の英軍捕虜に280人の米軍捕虜が加わり、このグループの米軍上官・ジェローム・マクダヴィット大尉の娘リンダさんが、自らの訪問記を「捕虜 日米の対話」サイトに掲載している。徳留絹枝さんがリンダさんと私を繋いでくださり、それが縁で私もまたこのエッセイを書く事となった。リンダさんの場合も協力者が必要だったように、私の大嶺町訪問は、波左間正己住職、小方孝太郎氏、山本文雄氏、そして小林浩志氏の尽力によるところが大きかった。


山本文雄氏と波左間正己住職

空き地に立ち、私の思いは自分の知る、父そして母の戦時体験に向けられていた。18ヶ月の間、母は夫の身に何が起きたか知るすべもなかった。そこへあのはがきが来た。

        僕は日本に抑留されている。
        賃金を得るために働いている。
        健康状態はこの上もない。
        これまで待遇は良いので心配してはいけないよ。
        家のことすべて、どうかよろしく頼む。
        君への愛をこめて。 エドウィン・
C・スマイス
                  (19446月)

母はどう受け止めただろうか。彼女は天にものぼるほど喜んだにちがいない!夫が生きているばかりか、良い待遇を受け、健康はこの上なしだと言う!しかし過酷な現実は大きく異なるものだった。捕虜たちは脚気、赤痢、下痢、マラリア、ペラグラ(ビタミンB欠乏による皮膚、消化器、精神疾患)、デング熱、栄養失調。。。に苦しんでいた。食事は米と薄い汁で、運が良いと昆虫入りだった。彼らは殴られライフルの台尻で打ち据えられた。多くが死んだ。

ついに大嶺町に到着するまでは、私の印象と想像のうちにある戦時中の日本は、黒か灰色の2次元世界だった。どれも同じような不鮮明な収容所の写真、木造の建物、汚泥、そして寒さ。突如、黒白は色彩の世界に変わり、私は新たにもっと希望のある過去そして未来の記憶の数々を思い描けるようになった。驚くほどに美しいこの風景は、苦痛と苦悩でひどく傷めつけられたが、いまはもう自然の力で修復されている。茂り合った緑の影にはどんな秘密がいまもあるのだろうか?

地元のメディアの記者たちが、とても礼儀正しく、しかし執拗に私たちに取材攻撃をかける。私は地元テレビのインタビューを受けた。そのあと数分して、私は父が絶えず労働していた炭坑の入口でしばらく時を過ごした。後でこう書いた:

              捨て去られた場所
             暗く開いた入口の遺構で
              僕は父に挨拶を送る

 インタビューした若い記者が戻ってきた。とても熱心な様子だ。つかえながら英語で言う。「お父様に我々がしたことを、本当にお気の毒に思います。」僕とおなじくらい、彼も泣き出しそうだ。

僕の父は五体そろって帰ってきたが、彼も彼の家族も変わってしまい元へは戻れなかった。米軍の病院船コンソレーション号上でアメリカの医師たち、看護婦たちから受けた医療と看護にどれほど深く感謝しているか、父が僕に話してくれたことを、よく覚えている。以下は彼が当時、母にあてて書いた手紙の一部である。

       僕はいま和歌山から沖縄(日本)へ行くアメリカの病院船上でこれ
を書いている。いくつかの原因でずっと健康を害しているのだが、いまは回復してきている。病院船スタッフの医療技術と看護のおかげだ。

       君に僕だとわかってもらえるよう、家に帰り着くまえにもっと体重を増やしたいと思っているよ。3年半という長さの、最悪に凄まじい悪夢の体験をし、他の大勢の皆と同様、僕も弱り、痩せて、おそらく他の様々な面でも変化が起こっていることとは思うが、ついに解放された。ほとんど望むことさえ出来ないことだったのだが。

戦争まえ、父は装飾文字を描く仕事をしており、収容所内では、亡くなった捕虜たちの遺品を保管する箱に氏名を書くよう頼まれていた。彼は3人のアメリカ人捕虜と友情を交わすようになり、その一人はレオナード・ロジャースという米海兵隊員で、彼とは絵画愛好という共通の趣味があった。自身画家だったレオナードさんは戦後ディズニー・コーポレーションで働いた。戦争が終わり、二人が共に福岡の病院で体調の回復につとめていたころ、レオナードさんは父に2枚のスケッチを友情の記念に贈ってくれた。彼の描く父は実物とそっくりなのだ。

リンダさんの父上と異なり、僕の父は捕虜体験を自由に語った。幼い子供だった僕にはじっと聴くのが難しいことだった。それでも、ひどい取扱いと病気に絶え間なく悩まされたにも係わらず、父が日本人にたいして憎悪を示したことは一度もない。

日本中どこへ行っても、あふれる親切に会い、友情と援助に圧倒された。若いひとたちは丁寧で好奇心に満ち、心を開いて接してくれた。高齢者たちは苦い想い出を抱いていたが、それらを償い、過去のトラウマをあとに先へ進み新しい友情を築こうとしていた。戦争は良い人々を悪いやつらにしてしまうと、私は美祢市の小学校の子供たちに語った。皆は歌を歌ってくれて、それから一緒に折り紙しようと誘ってくれた。 

美祢市タウン・ホールでは公式なレセプションが開催された。公式な場でスピーチの交換があった。これらすべてが地元テレビのクルーにより記録された。捕虜やその親戚が美祢を訪ねたのは、十年ぶりだった。その夜、私たち一行はホテルのロビーにあるテレビの前に集まりその放映を観たのだった。

私たちは麗澤大、成蹊大、青山学院大で学生たちに話し、英大使館で大使とお茶を共にし、ちり一つない英連邦墓地を訪問し、そこでは追悼礼拝が持たれた。私たちの旅の最後は、横浜の森のぼる・りゅうこご夫妻の御宅での2泊の滞在で締めくくられた。

毎年、私たちにユニークな体験を語ってくれる元捕虜の方々は少なくなる。だから今度は子供たち、孫たちが教育の促進と和解の努力を引き継がなくてはいけない。世界は危険に満ち、過去の戦争の遺産は腐食しやすいから、この仕事に二の足を踏んだり、また意気ごみを失わせやすい。アメリカ、英国、日本の異なる世代の人々が学校や大学で、共に学べる一番良い方法を考えなくてはならない。日本の若者たちが日本の歴史のなかでも問題の多いこの時期についてもっと気づきを持てるように助け船を出す必要がある。教育者の私にとって、今回の旅から生まれる一番重要な問いといえば、どうしたらこの課題を、配慮ある、しかし真実なやり方で実行できるかという点だ。

嬉しい後書き

幸運にも私たちは、電子機器による交流能力が発達して、瞬時に地球の向こう側と共通の目標や関心を共有できる時代にいる。2012年9月、父のアメリカの友、レオナード・ロジャース氏のひこ姪、ランディ・ジョンソンさんが私にeメールをしてきた。私が米海兵隊のオンライン雑誌「レザーネック」に援助を求める記事を載せてから何ヶ月もたっていたので、驚いた。お蔭で嬉しいことに彼女にレオナードさんスケッチをコピーして送ることができ、彼女の大伯父さんが父に示してくれた寛大な心遣いに小さな返礼をすることができた。レオナードさんの作品を家族が見るのはこれが初めてだったそうだ。

テリー・スマイス
2013515