米元捕虜たち抑留の地を訪ねて日本再訪
星条旗新聞 チャーリー・リード  20111020

 横田空軍基地発  時はすべての傷を癒すわけではない。

もし癒してくれるものなら、88歳のハリー・コリーさんが今回 日本に来ることはなかったろう。第2次大戦中日本の捕虜だったコリーさんと他の6名は、日本政府が主催する1週間の「和解」の旅で、日曜日、東京に到着した。約27,000人の米軍兵が戦時中日本軍に捕獲され奴隷労働を強制された。

捕虜たちは日本軍のもと苛酷な状況で辛酸をなめた。拷問、飢え、病気、危険にも絶え間ない兵士仲間の死にも身をさらし続けた。日本がこの旅を手配したのは彼らがいまも終わらぬ恐るべき苦しみの体験にけりをつけることができるよう願ってのことだった。なぜなら肉体の傷が癒え栄養失調は回復しても、心に受けた傷の苦しみは時がたっても和らぐことがないと言うひとが多いのである。

「心の苦しみが去ることはない」ロサンゼルスの退役軍人局で働くコリーさんは言う。「決して終わらない。」

コリーさんと他のメンバーを含め、日本軍捕虜となった多くのアメリカ兵たちは日本の戦争遂行に努力する企業で直接の原動力となるよう、日本全国に100以上あった収容所に送られた。およそ60社のうち数社がいまだに企業活動を続けているが、そのうちただ一社のみが今回の旅に参加を表明した。

企業へ送られなかった者たちはフィリピン、中国その他の太平洋地域にいた日本軍にじかに関連する労働につかされた。

何万という他の連合軍兵士たち、中国人、朝鮮人、フィリピン人もまた第2次大戦とそれにさきだつ日清戦争で日本に捕獲されアメリカ人とともに企業や軍の収容所で労働した。

コリーさんは日本の南西・九州の大牟田にあった労働収容所から自分が生還したのは、乏しい水っぽい米飯を自分の持つタバコと交換してくれた仲間の兵士たちのお陰だと言う。「僕が餓死させたやつらが大勢いると思う」東京のテンプル大学で月曜に開催された講演会で彼は話した。「自慢になることではないが、僕は生き延びた。」「「捕虜になると、考えるのはどうやって生きぬくかだ。隣にいる奴のことじゃない。」罪悪感と恐怖はいまだに彼をおそい夢にも出る。

「僕たちにできる最善のことは自分の体験を語ることだ」とコリーさんは言う。ロサンゼルスの退役軍人病院ですこしづつ他の退役軍人仲間にわかちあっている考えかたである。「でも忘れるなど、できるものではない。」

19458月日本の降伏にともない、解放された捕虜たちは忘れようと努めたと言う。成功したものはほとんどいない。

「わが国の政府は家へ帰れ、戦争のことはすっかり忘れろ、残虐行為については誰にも話すな、と言った。」91歳のハロルド・バーグバウアーさんは月曜のテンプル講演会で語った。「ひどいものでした。」

現在アリゾナ州ペオリアに住むバーグバウアーさんは、1950年代の半ばまだ米空軍在職中に、日本軍の訓練を手助けをするため家族とともに日本へ戻ってきたことがある。第2次大戦につづく米軍占領時代、米国の援助のもとで日本の自衛隊が設置された。

戦後3年間、日本で過ごしたバーグバウアーさんだが、フィリピンで捕虜となり日本へ輸送されて後働いた化学工場の地へは、火曜日まで、一度も戻ってみたことはない。

彼は同じ化学工場で捕虜として収容されていた88歳のジム・コリヤーさんと一緒にこの会社を訪問した。

「わが社への訪問でお二人がこうむった苦しみ、何年も胸に抱いてこられたお気持ちをやわらげられたらと願い、このプログラムに参加したいと思ったのです。」会社の広報担当の浜田タカオさんは言う。「ここへ戻る決意をなさるのは大変難しかったことと拝察します。」

しかし、コリヤーさんが日本へ戻る決心をするまでの感情は、難しいなどといった次元のものではなかった。 「気持ちが乱れました」とカリフォルニア州サリナスに住み、教員、学生指導カウンセラーとして引退したコリアーさんは火曜日、高岡の工場を訪ね案内されたあと、星条旗新聞の記者に電話で語った。

「会社の役員さんたちはとても親切で、準備を整えて迎えてくれました。」

 しかし、そこで耳にした言葉があまりにも心地よすぎて、ずっと心の中にあった感情との落差に彼は混乱してしまったと言う。かつての収容所もその後何十年もの開発ですっかり様変わりしてしまっていた、と彼は語った。「今日はひとりの悪魔もやっつける必要がなかった。」とコリヤーさんは言った。「混乱はしたけど、素晴らしい気持ちでした。でもかつての感情は表面には出てこないけれど、いつも火山のように潜在しているんですよ。」