べンジャミン・スティール

1917年モンタナ州ランドアップ生まれ

-米陸軍航空隊
-バターン死の行進、オドネル収容所、タヤバス作業班
ビリビッド刑務所、カバナツアン収容所、
「カナディアン・インベンター」、大峰町収容所

インタビュー・ビデオ 
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時間     2:14
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べンジャミン・スティール氏は、バターン死の行進、オドネル捕虜収容所、325人の捕虜が送られて50人しか生還しなかったタヤバス作業班、62日間の地獄船での航海、そして一年近くの日本の炭鉱での強制労働を、生き抜いた人物です。

彼は、捕虜生活を描いた画家として最も有名です。

スティール氏が絵を描き始めたのは、ビリビッド刑務所に収容されていた時でしたが、2枚を除く全ての絵は終戦までに失われてしまいました。しかし、開放されて帰還するとすぐ、彼はそれらの絵を再現し始めました。それらはやがて、日本軍下における捕虜体験を描いた最も包括的なそして最も説得力のある視覚資料の一つとなったのでした。
                                                                                                                                                                                                        
彼は、クリーブランド美術学校を卒業し、その後ケント州立大学で教職の資格を得ました。 1955年、デンバー大学から美術の修士号を取得し、長い間、東モンタナ大学で教えました。現在は同大学美術科の名誉教授です。

スティール氏は最近ワシントンDCで開かれたADBC総会で、2007年度エッセイコンテスト優勝者のジェシカ・ゴードさん(インタビュービデオ参考)、US-Japan dialogue on POWs の徳留絹枝伊吹由歌子と語り合いました。
 

オリジナルのスケッチは無くなってしまったそうですね。どうしてですか。

戦時中に私が書いたスケッチは、フィリピンから日本に向かう捕虜輸送船で失われました。それらの絵を友人の将校に託しておいたのですが、彼が乗せられた船が米軍によって沈められてしまったのです。

捕虜の貴方が絵を描くということには、どんな意味があったのでしょう。

絵を描くことは、苦痛を忘れさせてくれるという意味でとても役立ちました。芸術は、偉大なセラピーです。

あなた自身を、そして捕虜生活を、絵という形で表現することが、日本人に対して持たれていたであろう悪感情を乗り越えることに役立ちましたか。

かつて私は、自分達を酷く扱った日本人看守を憎んでいました。でも、今はそれらの感情を乗り越え、全てを許しています。モンタナ州立大学で美術を教えていた時、日本人の生徒が何人かいました。彼らは、私にとってとても助けになりましたし、今は何人かの日本人の友人がいます。彼らは私の家にも来てくれますし一緒に楽しく過ごしています。

あなたの絵には、現代の日本人にも理解できるメッセージがあると思われますか。

私の絵はとても強烈ですが真実を描いています。私は、それらがあらゆる意味で残酷な戦争というものの産物であることを、日本の人々にわかって欲しいと思います。戦争は地獄です。なぜそれが起こってしまうのか、理解するのは難しいですね。
 



編集:   アラン・ニューバーグ

絵の説明:シャーリー・スティール
       ベンジャミン・スティール

Copyright : Department of Art,  Eastern Montana College (1986)

"水汲みライン
 
オドネル収容所には、一本の給水栓しかなかった。歩ける捕虜が、病気の仲間のために水を運んだ。元気な兵士は、水筒を紐でつないだり、竹の節を切り開いて水を運ぶ容器とした。兵士たちは、水を汲むために一日中そして夜になるまで並んだ。多くの者が、飲み水を得る前に倒れて死んだ。
 

 
 
 
 
"落伍者"
行進についていけなくなった者は日本兵に殺される。
仲間の捕虜はとても介入できない。


 


クアンとクアンすること
捕虜は"クアンという言葉がフィリピン語で食べられるものを意味することを、知っている。やがて全ての捕虜は、その中に(雑草、昆虫、へびなどの)食べられるものを集め、料理できる缶を見つけたり作ったりする。この入れ物は、彼らの大切な所有物 クアン缶となるのだ。

 


"炭鉱外での仕事"
日本の炭鉱での外仕事は、つらいものだ。日本人は線路の路盤を作るために山肌を切り開く。捕虜は平らな台車に大きな岩を乗せ、それをいっぱいに転がして、そこに降ろすのだ。
(現存する2枚のオリジナルスケッチの一枚)