レスター・I.テ二―
1920年イリノイ州シカゴ生まれ

- 米陸軍192戦車大隊、
- バターン死の行進、オドネル収容所、カバナツアン収容所、「トコ丸」、福岡捕虜収容所17分所三井炭鉱
インタビュー・ビデオ - High Quality / Low Quality
時間 3:40
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行進

私達にとって不運だったことに、捕獲した捕虜に対する日本軍の移動計画は3つの仮定に基づいていたのだが、これらは全く価値のない仮説とわかった。まず第一に日本軍は2万5千から3万5千人の軍人がバターンに居るものと推定していた。降伏の前日に戦死した兵士が何十人もおり、さらにジャングルに逃げ込んだり、コレヒドールへ向かおうとしていた者もあったから、正確な数は結局分からないかも知れない。連合軍側の兵士のほかに、約2万5千人のフィリピン人の市民が隠れ場を求め安全を期待してバターン半島にいた。だから降伏当時のバターンには10万5千人近くがいたのだ。悪名高いバターン死の行進を実際に始めた人数は65千のフィリピン軍兵士人、2万8千人の市民そして12千人のアメリカ人だった。日本軍が見積もっていたよりはるかに大きな数である。

第二に日本軍は敵軍兵士が良い健康状態にありこの強行軍を大して水も食料もなしにたえられると想定していた。現実はまさに正反対だった。私たちバターンの兵士の食料割当は最後の4日から5日間はわずか一日800カロリーにまで落とされていた。私たちは米と小さじ一杯のC食(軍隊用非常食として戦闘中に用いるよう特別に調理されパックされた肉)を食べていた。 時に我々の食事には蛇1匹か猿1、2匹、望めるものならイグアナ1匹分などが増量されることもあった。前線の全兵士が1日ただ2食しか出来なかった。この飢餓食は壊血病、ペラグラ(ヴィタミンBなどの欠乏による皮膚の障害)、かっけberiberi、そしてマラリヤ蚊その他の病原にたいする抵抗力の低下をもたらした。食料があろうとなかろうと、私たちは行進に耐え得る状態とは程遠かった。歩ける者たちは入院しているべき状態で、病棟にいる者たちは死人同様だった。

最後に日本軍は、私たちの退避行については完全な計画があって何をすべきで、どうすべきか分かっているものと想定していた。実際には、個々の日本兵は自分たちが何をするはずかを知らなかった。日本軍のある一隊が私たちを一列に並ばせ、歩きはじめろと命令したと思うと、別の一隊が待てと言った。これらの命令は全て日本語で発せられ、たちどころに反応しないと、私たちは殴られ、つばを吐きかけられ、つきとばされ、ある場合には命令に従わない、と言う理由で撃たれた。ここでも再び、日本軍は仕返しを望んでおり、やり返して彼らのほうが優れていることを見せたがった。けれど見張りの兵たちが外の世界に無知のあまり、誰でも日本語が分かるものと思いこんでいる場合もあった。彼らは私たちののろさと自分たちの命令を理解する能力のなさにいら立ち、その不満を私たちに向かって吐き出すのだった。

私たちが日本語や日本人の習慣、軍の規律などを知らなかったために、「バターン死の行進」での私たちの側の死傷者数は非常に増えてしまった。私たちのうち日本語を話せるものはほとんどいなかったが、多くの日本兵が多少は英語を話した。だが彼らはアメリカ側への同情心と非難されるのを恐れて、仲間のいるところでは英語の能力を見せようとしなかった。
 

私達は毎日、行進中はゾンビの様にとぼとぼと歩いた。朝の六時半から夜の8時か9時迄歩いた。大抵の日、日本軍が見張りの交替をする時に、数分休むのが普通だった。さもなければ、休憩時間は行きあたりばったりだった。見張り達はいつも元気だった;というのも連中は3マイル(およそ5キロ)ばかり歩くだけで、次の3-4マイル(5-6キロ)は免れたのだから。このように、見張りがしょっちゅう変わっていたので、私達は何時もぴりぴりしていた;というのも、新しく見張りについた者達が、私達に何をさせたいのか、或いはまたさせたくないのか全く分からなかったので。その上、新たに代った見張り達は何時も同僚の兵隊に強い印象を与えようとした。そして無論、上司である将校に対しても同じであった。その上、連中は十分休息していたので、私達よりずっと早いペ-スで歩くことが出来た。という訳で、私達は行進中ビクビク、はらはらしていた。私はまた、行進者の外側の列は絶対に歩かないように気を付けた。

 

道の状態が悪かったことや、悪化していく健康状態、食料や水不足、全体をおおっていた敗北者的態度、のせいで、我々は行進中1時間1マイル(1キロ半)位か、せいぜい2マイル(3キロ)しか歩けなかった。日本人の見張りの叫び声やむち打ちは更に増え、絶え間ないものになったので、私達はカタツムリのように遅くとぼとぼと歩くことしか出来なかった。連中はどこに私達を連れて行くのだろう、と思ったものだ。私達を殺そうというのなら、何故道端でやってしまわないのか。そこなら埋めても誰にも分からないだろうに。行き先を心に決めて歩いたらずっと楽だったろう。次に休憩するまで70マイル(およそ)歩けとか、私達は捕虜収容所に行くのであり、そこで日本軍の為に働くのだ、とかだけでも連中が言っていてくれたらば、永遠に続くのかと思われる距離を歩くよりずっとよかっただろうに。

 

私達は、また再び、何日も食べておらず、渇きで殆ど気が狂いそうであった。私達は皆ゆっくりとしかし完全に脱水状態になり、それで水を飲まずにやがて死ぬだろうと悟った。バランガの町に着きさえしたら、日本軍は私達に食事を与える計画であると、私達は教えられていたが、その町は捕虜となったところから35マイル(60キロ弱)の場所だった。正常な状況の下で、十分な休息を与えられ、本式に訓練を受け、適切な量の食事を与えられている、そういう軍隊ならば、これ位の距離の行進を19時間ほどで終えることが出来たであろう。私達捕虜にはこうした類の、いやどんな行進にも与えられるはずのものは、与えられていなかった。我々は疲れ、やつれはて、もっと長い休息と医師の手当てが必要だった。エネルギ−が少しでも残っていたとしても、それは日中の暑さで吸われてしまった。

行進の5日目に、全行進中でも一番残酷で非人間的事件を一つ、私は見た。それにしてもひどいことばかり沢山、実際に私は見ていたのだが。私達は、別のグル−プが追いつくのを待って、僅かな休憩の間立ち止まっていた。別のグル−プがやっと到着した時、見張りは立ち上がって歩き出すように私達に命じた。その中の一人はマラリヤにひどく罹(かか)っており、休憩場所までも殆どたどり着けなかった。その男は熱でかっかしており、ひどく混乱していた。立ち上がるように命令されても出来なかった。ためらうこともなく、見張りは自分の銃の台尻を彼の頭に当て、地面に叩きのめし、近くにいた捕虜をふたり呼んでこの倒れた捕虜を埋めるための穴を掘るように言った。ふたりの男は掘り始め、穴が約1フイ−ト(約30センチ)の深さになると、見張りは、この病人を穴に置いて生き埋めにするよう、ふたりの男に命じた。ふたりの男は首を横に振った:ふたりには到底出来ないことだった。 

今度もまた警告もなしに、他の方法で事を解決しようと努力することもなしに、見張りはこのふたりの捕虜の中、大きい方を撃った。それから彼は、列から更にふたり引っ張りだし、殺された男を埋めるべくもうひとつ穴を掘るように命じた。この日本人の見張りは自分の主張をはっきりさせた。男達は二つ目の穴を掘り、それぞれの穴にふたりの人を入れ、土をその上に投げた。最初の男はまだ生きており、土を上に投げかけられると、悲鳴をあげはじめた。

 

私たちのうちおよそ5-6人の者が、この罪のない、武器も持っていない男達の虐殺を目撃した。私はといえば、顔をそむけ、吐くのを日本軍の人々に見られないように、手で顔を隠した。決して忘れる事の出来ない、その後幾日も気分が悪くなるような経験がそれまでにも沢山あったが、これもその一つだった。私は何度も何度も自問した、「私が生き続けているのはこんなことのためになんだろうか?明日か、明後日か、或いはその次の日に処刑されるためになのか?どうやってこのような残酷さを耐え続けられるのだろうか?」自分の決意が強いか、どうかもう一度試されることになった。私の決意の強さは再び試された。涙と吐いたものを拭うと、目の前のくねった道に目の焦点をあわせ、目標にするための目印を私はまた探した。私にはゴ−ルが必要であった;先へ進まなければならなかった。(レスター・I. テ二―著「バターン:遠い道のりのさきに」梨の木舎刊から抜粋)
 


日本の小学六年生から

木幡里奈

9月28日に私たち6年生はテニーさんに戦争で捕虜になったときの話しをしていただきました。

テニーさんの捕虜だったときの話しを聞いて、私は捕虜の人達がどんな大変な思いをしていたかが分かりました。テニーさんは日本兵に「たばこを出せ。」といわれて、言葉がつうじないので最後は暴力になってしまったそうです。

テニーさんの話しを聞いて一番心に残ったのは「死の行進」のことです。「死の行進」では多くの人が病気になったりして歩くのが大変なのに日本兵は言うことを聞かないと思ってムチでたたいたりしたと言っていました。病気をしたから休みたいのに日本兵は言っていることが分からず、何回も休もうとすると鉄砲でうったりしたそうです。

私はお互いが分かり合おうとすれば絶対に分かり合えると思います。でもこの場合は戦争中でお互いが敵だったから相手の気持ちを考えるひとはいなかったと思います。(中略)まずお互いが相手の国の習慣を知り、自分のことばかり主張しないで相手の身になって、気持ちを考えることが大切だと思います。

だから私は相手の国のことをよく知り、相手の気持ちを大切にして外国の人と仲良くしたいです。そしてこれから大人になる私達が、戦争や差別のないすべての国が仲のよい平和な世の中にしていきたいと思います。


対三井強制労働訴訟に関するテ二―氏の説明

私たちの法的闘争は、決してお金が目的ではありませんでした。それは名誉と尊厳と責任を追及したものでした。私たち元捕虜は、すばらしい日本の国と同じく、名誉と尊厳を回復したいのです。しかし同時に私たちは、私たちの人間としての権利を冒した者たちに、責任を受け入れて欲しいのです。

責任を取ることは、名誉ある行為です。そして日本が名誉を重んじる国であることは、世界中が知っています。同様に、何千人ものアメリカ人捕虜を奴隷にし、生きるために必要な最低の世話さえ施さなかった企業は、自ら進み出て、無実で武器を持たない捕虜たちを奴隷として虐待し、食事もまともに与えず、医療も提供しないという悲惨な扱いをしたことを、謝罪すべきだと思います。

もし日本が本当に私たちの友好国であるなら、彼らは自らの名誉を回復することに最大限の努力をし、犯した罪に関して謝罪すべきです。


参議院議員岡崎トミ子氏の国会演説

私は一昨日、レスター・テニーさん、来日されましたのでお目に掛かりました。....この日本に対して許したというふうに言っているわけなんですね。許したけれども、決して忘れないと。本当にそのことを許すこと、自分自身を自由にする、そのためには、日本は、企業は一言謝ってほしい、そして自分が奴隷でなかったという証拠に、お金は金額は幾らでもいい、奴隷でなかった証拠にお金も補償していただきたい、そんなことをおっしゃっておりまして日本に謝罪や補償を求めている戦争被害者の方たちは決して全員が反日ではないというふうに私は申し上げたいというふうに思います。被害者としての名誉回復、人権の回復というものを 求めているんです。

2003320日 参議院内閣委員会



岡崎氏(右
レスター&ベティ・テニー


テ二―氏の回想録を日本語に訳した元高校英語教師からの手紙

親愛なテニーさん、

2000年に貴方と出会えてとても感謝しています。貴方は横浜英連邦戦没者墓地で開かれる追悼集会で、その年の講演者でしたね。(この墓地には元捕虜1,873人が眠っており、其の殆どは20代です。太平洋南方諸国で捕われ、日本での強制労働のため輸送された連合軍捕虜35,000人のうち、3,500人は故国への夢むなしく当地で亡くなりました。)礼拝の祈りのうちに彼らに語りかけた貴方は、午後の対話集会では日本の聴衆に向かい、バターン死の行進、フィリピンでの収容所生活、大牟田三井炭坑での体験を語りました。

かつて敵だった日本人に語りかける貴方を偉いと思います。最初の出会いのときから、その大きくて暖かいこころと前向きな態度に圧倒され、素晴らしいひと、と引き付けられました。貴方は困難に挑戦します。貴方を拷問し、また友人達を殺した人々に対するこころの壁はどれほど堅くて、打ち破るのは容易ではなかったことでしょう。わが国と三井企業は、戦時中の誤った人道的行為について事実の認識と謝罪を、いまなお貴方に負っています。いまもなお戦う貴方を、私も多数の日本の友のひとりとして応援します。 

日本に来て、私の生徒をふくむ大勢の若者に語りかけてくださり有難うございました。ウィットいっぱいのマジック・ショウで聴衆を笑わせ、こう言いました。「過去の戦争で私の身に起きたことを、貴方達が 謝る必要はない。でも君達、自分の人生には責任があるのだよ。」短期目標と長期の目標、両方を持って生きなさい、と彼らを励ましました。死の行進ちゅう、どのようにして若い友人達が殺されたか、貴方の話しを聴きながら、みなは涙し、コミュニケーションの大切さ、そして互いの文化を理解する大切さを学びました。公正なものの見方と、その存在が発散するこころの暖かさとが、聴くものたちに伝わりました。

友人3人と共に貴方の体験記を翻訳したわけですが、その作業をしながら話し合った多くのことを私は大切にしています。なんと言おうと、最大の防御は友情と私は信じています。貴方も同意してくださるといいのですが。

感謝と友情をこめて、

伊吹由歌子


1945年から48年までソ連で強制労働に就かされた旧日本軍兵士からの手紙

テ二―博士
朝日新聞にあなたが書かれた"許しと責任のどちらが欠けても無意味である"の一言は、私の胸に強く残っています。なぜならそれは、同じ悲劇を体験した者同士が行き着く願いであるからです。必ずや正義の回復する日は近かろうと信じます。どうかその日を健康でお迎えあるよう祈るものであります。

池田幸一

 


最近のテニー氏