戦争は終わったが、記憶は残る :遅すぎる正義は不正義である

 レスター・テニー博士

バターン・コレヒドール防衛米兵(元日本軍捕虜)年次総会 基調演説
2006年5月20日  アリゾナ州フェニックス


アレクサンダー会長、元捕虜仲間の皆さん、来賓の皆さま、そして今は亡き友人たちのご家族の皆さん、私は、私たちの正義への戦いに関する私の思いを、皆さんと分かち合うよう依頼を受け、光栄です。過ぎ越した年月の中で、私たち全員は、バターンとコレヒドールで私たちに起こったこと或いは日本軍捕虜収容所で過ごした期間について、なんらかの形で議論を交わしてきました。

どうにかこうにかこれらの議論は、「愛と理解」といった言葉や、慈悲・許しを強調する言い回し、果ては励ましや友情を語れるところまで、来るようになりまいた。でも私は今夕、「責任」に関する言葉と価値を皆さんと分かち合おうと思います。それらは自分の行動に責任を持つということであります。物事がうまく行かなくなった時でも責任を受け入れる、そして自分の能力の許す限り責任を果たしたのだ、その時点で正しいことをしたのだ、という認識と共に生きることを進んで受け入れる、といったことです。

私はこれまで、訳知り顔の連中が、私の訴訟はお金が目的で、ホロコースト被害者の真似をしたのさ、と言うのを何度も耳にしました。その件について、ここではっきりさせて貰います。自分を奴隷にして虐待した日本企業からどのように未払い賃金を回収できるのか、私が初めて国務省に尋ねた手紙は、1946年11月7日付けでした。そうです。1946年です。1、2週間のうちに、1946年11月18日付けの国務省からの返事を受け取りました。そこには、私の正義への戦いにおいて私の利益を代理する弁護士も他の組織も必要ない、国務省が私になり代わって対処する。追って連絡する、と書かれていました。

さて、2006年5月20日の今日現在、私はその連絡を貰っていないのです。

60年前に日本は降伏し、やっと平和が戻ってきました。しかし、私たちのある者は今でも、かつての敵が責任を取ることを待っています。私たちの側は責任を受け入れたからです。私たち元捕虜は、野蛮で残虐な敵に降伏した時に私たちを待ち受けていた運命を受け入れるという責任を取り、その後の年月で、そのような責任ある陸軍・海軍・海兵隊兵士であったことのつけを払ってきて、現にいまもそのつけに悩まされている者も多いのです。

責任を取るということは、ある出来事に於ける自分の役割を受け入れるということです。そして、その出来事にまつわる事実を受け入れる義務があり、それらの事実を評価し、それに従って正義を成さなければなりません。それがどんな結果をもたらすかに予め影響を受けることなく、それを行うべきなのです。私たち米捕虜の日本の大企業に対する訴訟の場合、その後日米の間に育った友好関係を大事にするという結果に、法廷は影響を受けていたと思います。

米国最高裁は、正義を求める私たちの訴えを退けました。私たちの控訴は、訴訟同様、被告日本企業が私たちに強制労働を課し、常時暴力を振るい、食事も医療も満足に与えなかった故に起こされたものです。最高裁の決定は、世界に向けて報道されたとおり「コメント無し」として下されました。この決定が、私たちの長かった正義を求める戦いに、事実上終止符を打ったのです。

私たちの弁護士は、次のように陳述しました。

「日本の財閥が戦争に生き残った理由の一つは奴隷労働の利用であり、その後訪れた戦後の復興ブームで成長した。これらの原告は、捕われの身であった年月中、言語を絶する虐待を受け、第二次大戦を戦い勝利に導いた世代を代表する最も立派な人々である。彼らは、私たちの平和な暮らしを差し迫った深刻な脅威から守るため、個人的に大きな代償を払った。彼らが受けた不法の、そして近代国家が当時も現在も守らなければならない戦争の習慣法規に反する扱いは、20世紀の歴史における暗い影として常に残るであろう。」

このような雄弁で刺激的な陳述にも拘らず、最高裁は、私たちの訴訟を法廷で取り上げるべきだと言う訴えを退け、私たちの正義への嘆願を無視する決定をしたのです。

私たちの法的戦いは、決して金銭に関るものではありませんでした。それは、名誉・尊厳・そして責任に関ることでした。日本国民がそうであるように、私たちアメリカ人捕虜も、名誉と尊厳を重んじることを誇りとしています。でもそれが私たちから奪われたのです。帰還した私たちが一貫して求めてきた唯一のことは、私たちの人間としての権利を侵害した者たちがそれを修復することでした。私たちの名誉を奪った者たちに、その責任を取りその犯罪に責任を取って欲しかったのです。それが補償を意味するなら、それでもよいでしょう。私たちには、提供した労働に支払いを受ける権利が当然あるのですから。

私たちは、指揮官の将軍が武器を置くようにと言ったとき、一度は降伏しましたが、再び降伏することはありません。私たちの新しい戦いは、「バターン死の行進補償法(H.R.30)」として再び議会に提出されました。それは、日本軍の捕虜であった期間を1日4ドル換算(3%の利子を加え)として補償するものです。この法案の欠点は、死の行進の生還者だけへの補償で、未亡人が再婚している場合、何も受け取れないことです。このような法案は支持できません。

私たちのために倦むことなく努力を続けてくれるリンダ・ホームズさん(彼女はつい最近も、私たち捕虜のある者の給与が日本の郵便貯金口座に振り込まれていたことを発見してくれました)に感謝します。もしこれが本当なら、口座に給与が入っていた者は、3-4千ドルを貰えることになるかもしれません。そして、私たちが求めてきた正義が実現するようにと、この5年間努力してくれた徳留絹枝さんと伊吹由歌子さんにも、感謝したいと思います。

ここで、最高裁がどのような訴訟を大事だと考えているかの例を紹介します。

最近最高裁から全員一致の決定を勝ち取ったアンナ・ニコール・スミスを覚えていますか。わが国の最高裁は、米兵捕虜の日本大企業に対する訴訟より、彼女の訴訟を扱う方が大事だと決定したのです。

スミスの訴訟において最高裁は基本的に、他のどの連邦法廷でも州法廷でもなく、カリフォルニア連邦地裁が、死んだ資産家の夫の遺産をめぐって審理すべきだと言い渡しました。彼女には一銭も貰う資格がないとしたテキサス州法廷に、カリフォルニア州法廷が異議を唱えたのですが、それに対して我が最高裁が裁断を下したという訳です。人民の人民による人民のための法廷といったところでしょうか。

スミス訴訟と私たちの訴訟の類似点にお気づきですか。どちらも同じ取り扱いを求めて最高裁に持ち込まれました。即ち、自分たちのケースをカリフォルニア州法廷で審理して欲しいということだけでした。私たちが請求したのはそれだけでしたし、スミス訴訟もそうだったのです。

彼女は、義理の息子を相手取って、自分には1.5億ドル(1,500億円)の遺産を受け取る権利があると訴えました。何と言っても、この30歳のストリップクラブ・ダンサーは、89歳の億万長者と一年ちょっと結婚していたのですから。醜い訴訟どころではありません。ここで起こっていることは、米国最高裁が、敵国から虐待され正義を求める権利を剥奪された退役軍人の訴訟ではなく、大金持ちが金銭をめぐって争う訴訟の審理を許し、その過程で何百万ドルもの訴訟費用やさらには目に見えない開廷費用が浪費されるのを認めたということなのです。

アンナ・ニコール・スミスは、最高裁の判事達が彼女の味方をしてくれて、幸運でした。もう一度言いますよ。最高裁は彼女に味方したのです。皆さんもご存知のように、同じ最高裁は私たちのケースを取り上げることを拒否し、条約が全ての問題を解決したと判断したのです。これは国務省と司法省が4年間にわたる聴聞会で主張してきた議論と同じです。私たちの弁護陣は難しい戦いに挑みました。彼らは証拠と専門家証人を用意しましたが、その中には条約に関する世界的権威もいました。それでも、政府指導者の議論と、良好な日米友好関係を維持したいという彼らの願いには、勝てなかったのです。

こんな正義の茶番劇がいったいなぜ起こったのかと、皆さんは聞くかもしれません。スミス訴訟が法廷のお墨付きを得たのに、いったいなぜ私たちの訴訟が締め出されたのか、と。

その答えは疑いもなく、弁護答弁を提出した当事者(わが国の国務省)の影響力にあるのです。聴聞会で私たちの立場を訴えた代理人は、非常に有能で尊敬される著名な弁護士たちでした。私たちのケースが法廷で取り上げられないように戦ったのは、国務省と司法省でした。彼らの議論は明快には展開されませんでしたが、その影響力は法廷関係者に影響を及ぼし、条約が全ての問題を解決したという議論が、彼らの結論に過大な影響を与えたのです。

皆さんは、私がこれらのことを事実として知っているのかと、聞くかもしれません。答えは、いいえです。でも私は、元捕虜のために提出された議論を知っていましたし、国務省が提出した議論も彼らの影響力も知っていました。最高裁が私たちのケースを取り上げないと決定を下すまでには、元捕虜への正義は奪われ、この偉大な国の市民は、敵がいかに不誠実で残虐だったかを知る機会を奪われたのです。

そう、戦争は終わったが記憶は残ります

私たちは負うべき責任を引き受けた兵士、水兵、海兵隊員でした。大混乱を引き起こした当事者たちが、みずからの責任を引き受けないのは、なぜなのでしょう。訴訟があろうとなかろうと、労働者だった私たち捕虜に残酷な扱い・待遇を与えた日本企業には、然るべき処置をとる義務と責任があるのです。

今日ここに立つ私は、もはや日本軍の囚人ではありません。私を殴り、拷問を与えた人間たちは、もう私のこころの内に生きてはいないのです。皆さんたちの多くがそうだったように、私もまた、自分の人生を生きぬいてきました。みな、過去は捨てなくてはならず、生存をかけて未来への努力をしたのです。あなた方が他人を入れまいと立て巡らせた塀は、不幸にも、あなた方自身を閉じこめています。公正な処置を求め、たゆみなく戦い続けてきて、私たちの多くは自分自身については、よかったと思っています。それをしたからこそ、傷つけ、侮辱した者たちの手錠から自分を解き放つことができたのです。人間的尊厳、名誉、自己評価を回復することができたお陰で、外の敵であれ、国内にひそむ敵であれ、自分を虐待し、損なう者たちをたたき出すという愉快なことができました。
 

聖書によってユダヤ教、キリスト教、イスラム教は「人間の過ちへの神の赦し」を説き、慈悲ぶかい、赦す神を語ります。その前提があって、私たちは赦すよう求められているのです。そして私が赦すことによって、過去の痛みと憎しみに対処できるよう神様は助けてくださいました。

「戦争は終わったが、記憶は残る」のです。

戦時中、私たちにいま拒絶されている自由を得るため、私たち生存者は情熱こめて戦いました。私たちバタアン、コレヒドール、ウェイキ、グァムの生存者たちは、捕らえられ3
年半以上ものあいだ収監され、そしていまなお、戦っているのです。過去の敵方の責任を法廷での出会いで求めようとしていたとき、つまるところ、私たちの正義を求める訴えが国務省によってうまく阻止され、不運にも最高裁が彼らに同意したことを知らされました。

 一見するところ、ふたつの国家のあいだに今ある友好関係を守るために必要な措置とされたようです。その前提は納得できるのです。その地域に友好国を持つことは重要です。しかし、友情が善悪の問題に影響を与えるべきではありません。米国の最高裁は、捕虜の訴訟を開く訴えへの決断にあたり、国務省が提出した法律用語に過剰に引きずられ、それが一因となって最高裁は私たちの側に立たない決定をし、「地裁が我々のケースに耳を傾けてほしい」、という私たちの願いを尊重しないことに決めました。

 わが国の歴史で、今日、国務省は彼らを守るという約束のものと、我々の軍隊が捕囚と死の危険に直面しているこのときに、私たち過去の戦争の退役軍人は忘れられるばかりか、何年も昔に与えられたその同じ約束を拒絶されるとは私にはショックです。

国務省当局にたいする私たちのメッセージは次のようなものです。「裁判は開けなくなったが、私たちは屈服しない。捕虜の生存者がいる限り、私たちは正義を求め戦いを続ける。」正しきにそって行かなくてはなりません。ひとが言うから正しい、のではない。ひとがするから、しないからで、私のするべきことが決まるわけではないのです。何人のひとが違うと言っても、正しいことは正しいし、間違ったことは他の何人がどう言おうと、間違っているのです。善悪を知ることは責任ある個人となるための第一歩に過ぎません。次のステップは正しい行為をすることで、間違っているひとへの批判を怖がらないことです。意見を述べること、必要なときは批判する、また適当なときに褒める、これは大切なことです。自分は見るとおりに声をあげる、と私は自認しています。

そのとおり!「戦争は終わったが、記憶は残る。」神は安全着陸を約束してくださったが、安易な行く手を備えてくださったわけではありません。

国務省への想いにもかかわらず、私は国を愛しており、いつも国旗を尊重しています。国旗といえば私の亡き友であり当会の元会長であったフランク・ビグロウの言っていたことを思い出します。フランクと私は全国放送のテレビやラジオ番組で何日も何時間も、「遅すぎる正義は不正義である」と言ってまわりました。そしてフランクはいつも最後に「アメリカの国旗が大好きだ。」と言ってインタビューを終わるのでした。

そこでフランクを称えるために、私はジョニー・キャッシュの歌の歌詞で終わりたいと思います。この歌詞を書いたとき彼はこう考えました。歌うのではなくて、言ってほしい、こころをこめてと。さあ、それではやってみましょう。


オンボロのあの旗

郡庁舎まえの広場を歩いたら、公園のベンチに老人がいた


「あの古い庁舎はもう倒れそうだな」と言ったら

「いんや、この小さな町には十分さ」と彼が言った。

「旗竿がちょっくら傾いてるぜ」と私、

「それに掛かってるあのオンボロの旗ときたら。」

私をみやり彼が言った「座りなよ、お若いの。」座ると、.

 

「この町へきたのは初めてかい?」

「そうだね」彼が言う「自慢話は好かないがね、

あのオンボロ旗ばかりはちょっと自慢にしてる。」

あそこに小さな穴があいてるだろ?

あの旗がワシントンとデラウェア川を渡ったときにできたんだ。

フランシス・スコット・ケリーがあれを眺めて

「ああ、見えるか?とあの歌を書いていたとき火薬で燃えたのさ。

それからニュー・オーリンズではひどい裂け目ができた


パッキンガムとジャクソンがふちを引っ張り合ったから。

アラモでは危うく落ちることだった。

テキサス州の旗のわきによ、でもそよぎ通したんだ。

チャンセラーズヴィルでは銃剣で切られ

シャイローヒルでも刀傷さ。

ロバート・E・リー、ブレガード、ブラグ

そしてオンボロ旗に南風が手荒く吹きつけた。


1次大戦ではフランダースの野で、

大きなバーサ砲の玉をくらった

.
2次大戦では血に染まった

バタアン、コレヒドール、沖縄、そしてノルマンディ海岸でも。

 

終わるころにはなえてひくく垂れ下がってたさ。

朝鮮にもヴェトナムへも行った。

祖国が行けと命じるどこへでも行った。

塩水に浮かぶ船上でそよいでた。

そしていま故郷のここでそよぎおさめをさせようしてるみたいだな。

昔からのふるさとであの旗は虐待されてきた

焼かれ、栄誉を奪われ、否定され拒絶された

自分が仕えた政府が

あちこちでスキャンダルにまみれた

糸がすいて見えるし、生地も薄くなった。

でもあのままで元気なのさ

だって前にも火をくぐりぬけたんだ

まだまだやれると思うよ。

毎朝あの旗を揚げる


毎晩、降ろすのさ。

地に触れさすなんてことはしねえ。

ちゃんと畳みあげるよ。

考え直すとね、おい、とても自慢したいよ。

だって俺はあのオンボロ旗がたいして得意なんだ。」

 

ご静聴有難う。アメリカを、神よ、祝福してください。