捕虜の娘の思い
 

日本POW友好プログラムの価値

2010年、私は、第二次大戦の元日本軍捕虜のための「日本POW友好プログラム」 第一回目の参加者となる光栄に浴しました。「江の浦丸」という捕虜輸送船上で死んだ捕虜の娘である私が抱く捕虜体験への視点は、もちろん捕虜達自身のそれとはずいぶん違います。私はロサンゼルスで育ちましたが、母は、私と妹が隣人の日系人と父の死を関連づけることがないよう万全を期していました。母は、父の体験を語ることは決してありませんでした。悲しみは隠すべきものだったのです。私がバターン死の行進、カバナツアン捕虜収容所での生活、地獄船のことを知ったのは、何年も後のことでした。私にとってこの数年は、写真でしか知らない父、でも確かに私を他の人々とは違った人間にした父を、探し続けた日々でした。 

私は、元捕虜とその家族の会である「全米バターン・コレヒドール防衛兵の会」総会に出席し始めました。母が戦後受け取っていた手紙から、父の死に関する正確な状況を知りました。生前の父と知り合い親しい友人となっていた人物を、発見しました。私の最初の探求の旅は、バターン死の行進から60周年の2002年に出かけたフィリピンへの旅行でした。時が経つにつれ、私は、父の祖国への奉仕、捕虜生活、そして死が私に与えていた深い影響について、気付くようになりました。それらの出来事の中核にあったものは日本でした。多くの類似点にも拘らず、一人一人の捕虜とその家族はそれぞれの捕虜体験の結果、ユニークな反応と視点を持っています。そして日本と日本人は、こらからもずっと彼らの人生の物語に欠かせない一部であり続けるでしょう。 

日本への旅行はよく計画されていて、さまざまな活動と会見を含んでいました。そのような旅行を可能にしてくれた全ての方々に、私は心から感謝しています。ハイライトの一つは、岡田克也外務大臣が、捕虜の取扱いに関して謝罪をしたことでした。もう一つは、京都の霊山観音への訪問でした。その寺の僧侶の方々は、日本軍捕虜として死んだ者一人一人の名前を記したカードカタログを作成していたのです。父のカードを発見した私は、感極まってしまいました。それは、本当に長い年月にわたって抑え込まれていた喪失と悲しみの感情を、一気に噴出させました。誰かがわざわざ時間と努力を費やし、手動式のタイプライターで一人一人の名前をタイプし、それをこの寺に保存していた、ということは本当に意義深いことでした。ですから、私自身の父は日本に到達しなかったのですが、この旅は、父の体験とその死を歴史的文脈と日米関係から理解しようという私の個人的な探索と、私の人生と家族に生涯にわたって及ぼした影響を理解しようという旅路の、双方にとって大きな一歩となったのです。

ナンシー・クレイグ
クラレンス・ホワイト中佐の娘
第31歩兵部隊医療班
オドネル・カバナツアン捕虜収容所
45年1月11
日地獄船「江の浦丸」上で死亡
 

                
      クラレンス・ホワイト中佐    父親の死亡カードを見つけたナンシー
 

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家族にも影響を及ぼし続ける捕虜の被害

元捕虜を日本政府のゲストとして日本に招待する日米捕虜交流プログラムは、第二次大戦後に残された傷を癒すために価値あるものです。最初の訪問には二人の次世代、そして2013年には二人の未亡人が含まれていましたが、基本的に招待は捕虜に限られています。現時点で、2014年度招待は捕虜のみを対象とすると聞いています

日本軍の捕虜として囚われの身で過ごした日々の被害は、捕虜の家族の多くに今でも影響を与え続けています。捕虜の子供で戦前に生まれていた者の多くは、父親が彼らにさよならのキスをして出征した後、二度と父親の顔を見ることはありませんでした。彼らは嘆き悲しむ母親の下、往々にして新しい父親の継子という難しい状況で育ったのです。生還した捕虜の子供として戦後生まれた子供たちは、彼らの父親が、他の父親たちとどこか違うことを知っていました。多くの場合、それは語られることがありませんでしたが、彼らの父親には、子供に決して食べ物を無駄にすることを許さず自給自足を求める他、説明のつかない感情の起伏、ひきこもり、悪夢を見て叫ぶ、などの症状があったのです。彼らは特に息子に厳しくあたりました。

彼らの息子や娘にとって、ADBC-MS (全米バターン・コレヒドール防衛兵の歴史協会)の魅力の一部は、捕虜だった父親と同じような体験を持つ人々と出会い、交流できるということです。共通の体験は、とても強い絆を生み出しているのです。初めてこの会の年次総会に出席した者は、よく「新しい家族ができたみたいだ」と感想を言います。捕虜の父親を持ったものでなければ、この現象を本当に理解することはできないでしょう。

私には妹と弟がいます。妹のマリーディとは14ヶ月しか離れていませんが、弟のタブは5歳下です。母は1966年に亡くなり、父は1972年に57歳で亡くなりました。彼らの最終的死亡原因は癌という診断でした。私たちの子供時代を振り返ってみると、父か母のどちらかがいつも入院していたという感じでした。父は戦後陸軍に職を得て、歩兵部隊から兵站部隊に移りました。きっと彼の心のどこかに、いつも食糧の近くに居たいという思いがあったに違いありません。彼の仕事の一部は、所属部隊の点検と管理業務でした。彼はアラスカ全域の兵站の責任者だったことがあり、不慣れなパイロットが操縦する小さな飛行機で、最果ての地に駐屯する部隊へ頻繁に出かけていったものです。

1957年に陸軍病院で彼が受けた健康診断の調査報告には、頻繁に躓いて転ぶ原因となっていた足の神経障害と視力障害が彼を著しく苦しめていたと、記録されています。デング熱、ビタミン欠乏症、脚気、そして捕虜収容所時代の栄養失調の後遺症だったのです。やがて症状は耐え難いものとなり、父は20年の勤務の後、陸軍から離れました。

妹と私は最近、彼女が何年も保管していた古い箱の中の家族の書類を、何時間もかけて読んでみました。私はこの10年間、父の戦時中の体験を調べていましたので、ほとんど語られなかったその体験に何か新しい発見がないかと、期待していたのです。父に関しては特に目新しいものはなかったのですが、母の検死と病歴の報告書の入った封筒は驚きの発見で、私たちに少なからず衝撃を与えるものでした。

私たちがアラスカのフォート・リチャードソンに駐留していた1953年の報告には、彼女の詳細な病歴が記されており、足の皮膚と関節の強い痛みで歩行を困難にする結節性紅斑と呼ばれる病に冒されていると、書かれていました。彼女に最初にこの病気の症状が現れたのは1951年で、症状がアメーバ症に似ていることから検査を受けたのですが、「夫がアメーバ症に罹患した日本軍の捕虜であるために検査する」と報告書には書かれていました。

結果は彼女も感染していたのです。これは、数多くの捕虜をジャングルで、バターン死の行進で、後には捕虜収容所で死に至らしめた病でした。報告はこう結論付けていました。「家族の歴史が特異であり、1951年1月には一人の子供もアメーバ症に感染していることが発見された。」

私は声を出してその報告を読んでいたのですが、この箇所に差し掛かり、私も妹も呆然としてしまいました。私たちはお互いを見つめあいながら、無言のまま、自分たちのどちらがこの病に罹っていたのだろうと考えていました。1951年1月といえば、私たち家族はカリフォルニアに住んでおり、私は3歳で妹は2歳でした。弟はまだ生まれておらず、私たちが当時何らかの健康の問題を抱えていたという記憶は、私にも妹にもありません。63年も前のことを聞ける人もいなかったのですが、幸運だったのは、二人に何の症状も出ていなかったということでした。

この発見は私個人の話ですが、捕虜として受けた被害が捕虜本人にだけ留まるものでないことを、示していると思います。これよりもっと酷い話もたくさんあるのです。私たちの場合、戦争と捕囚の結果が6年後に家族の二人にも現れました。ADBC-MS 会員の家族は、日本軍の捕虜だったことの肉体的・精神的苦痛が1945年の秋で終ったのではないことの、生きた証拠なのです。

彼らの多くは90代ですから、日本への長旅に耐えられる元捕虜はもうすぐ誰もいなくなります。参加者全員を元捕虜とすることができなくなった時は、日米友好プログラムを拡大させ、捕虜の未亡人や子供たちを加えることが、日米関係を引き続き深化させ、未だに尾を引く傷を癒すことに大いに役立つでしょう。

キャロライン・バークハート
トーマス・
F. バークハート少佐の娘
フィリピンスカウト第45歩兵部隊
オドネル・カバナツアン収容所
捕虜輸送船『長門丸』で日本へ移送
多奈川・善通寺・六呂師捕虜収容所

                                                
        善通寺収容所でのバークハート少佐             キャロライン