土屋弁護士のこと

徳留絹枝

私には、土屋公献弁護士に関する忘れられない思い出があります。2001年9月、日米の要人が数多く参加して「講和条約調印50周年記念式典」がサンフランシスコで開かれた時、日本の戦争責任問題は講和条約で解決していないとする市民団体も、同市でシンポジウムを開きました。「731部隊細菌戦」訴訟の弁護団長を務めるなど、長年戦後補償問題に取り組んできた土屋弁護士も、発表者の一人でした。彼は訴訟の経過を説明した後、日本は過去の犯罪を認め、謝罪をし、補償をすべきであると訴えました。

会場には、第二次大戦中に日本軍から虐待を受けたオーストラリアの元捕虜の代表が数人出席していたのですが、その中の一人が、土屋弁護士の発表が終わった後、私のところに来て「ミスター土屋 とお話をしたいのですが、通訳してくれませんか」と言うのです。私は喜んで引き受け、二人で土屋弁護士のそばまで行きました。そしてこの人物は、次のように語りかけたのです。「ミスター土屋、私は今日のこの日まで、日本人と握手したいなどと思うことは生涯あり得ないと思ってきました。でも今日あなたのお話を伺い、握手したいと思いました。あなたを心から尊敬します。握手して頂けますか」

土屋弁護士が嬉しそうに手を差し伸べたのはもちろんですが、私は、ひとりの人間の誠意と信念に支えられた行動が、どれだけのことを成就できるかを目の当たりにして、深い感動を覚えたものでした。

以下は、土屋弁護士が2004年に「不戦大学」で講演した内容を、ご本人の許可を得て抜粋し 、多少書き加えたものです。


身を以って臨みし戦忘れねば、その愚かさと惨さ伝えん

土屋公献
 

「学徒出陣」で小笠原の魚雷艇隊に

戦争末期には、学生でも文科系であれば、20歳をすぎると「学徒出陣」になった。海軍と陸軍と、どっちを選ぶか、黙っていると陸軍なのです。私は陸軍ではなく海軍がいいと思って海軍に入った。

海軍に入って鍛えられ辛い思いもしたけれど、どうやら少尉候補生。しばらく経つと少尉になるという身分で、小笠原諸島の父島に赴任した。それが、終戦の年の昭和20年、1945年の1月です。2月に入って間もなく硫黄島に米軍上陸。ここは飛行場に利用できる。ここは陸軍、海軍の兵隊がたくさんいましたが、アメリカ軍が硫黄島を占領するために攻めてきて、硫黄島の沖に戦艦、航空母艦、巡洋艦、駆逐艦、もちろん輸送船、そういうものが無数に硫黄島を取り巻いて、上陸 作戦をはじめた。

結果的には硫黄島守備隊は全滅した。ほんのわずかが捕虜になって、生き残った運のよい人もいましたが、大部分が”玉砕”した。小笠原父島というのは、硫黄島からちょっと北にある。東京からは千キロ南に行ったところです。硫黄島へは、さらに200−300キロぐらい。硫黄島からはいちばん近い島でした。小笠原に魚雷艇隊というのがあった。20トンくらいの船で、10人乗りで長さが20メートルくらい、絃の両脇に魚雷を2本抱える高速ボートです。そういうボートが硫黄島の近くまで出て行って、大きな船に対して魚雷を発射することができます。

アメリカは自分達の軍艦、輸送船、上陸用舟艇が沈められたらたまらないというので、父島の魚雷艇を全部潰してしまおうとしたのです。父島に魚雷艇が20何隻あったが、その魚雷艇を潰すために、アメリカの航空母艦から飛び立った無数の飛行機が、父島に飛んできた。これを迎え撃つ。地上あるいは船上にある機関銃(海軍では機銃)で米飛行機を撃つ。米飛行機の方は、機銃でバリバリ撃ちながら、近づいてきて爆弾を落とす。その爆弾もロケット弾といって、いったん狙ったらまっすぐ飛ぶ爆弾なのです。戦死した人、重傷を負った人もいます。私は弾丸が顎をかすっただけで、かすり傷でよかった。10センチ違えば頭に当たっていたかもしれない。その中で死んでいく人がいる。

惨い死を見ると怖くなる

はじめ、撃ち合いをやっている間は怖くなかったが、目の前で死んでゆく人を見ますと、それがただ、ニコッと笑って死んでいくなら、あるいは「天皇陛下万歳」とか言って美しく死ぬならいいのですが、口から入った弾が頭に抜けて、鉄でできたヘルメット鉄兜を貫いてしまうのです。口をあけて目を剥いて、口から血が物凄い勢いで噴き出ている。そういう惨たらしい死に方を目の前で 見ると、怖くなるのです。

この戦争は勝ち目のない戦争だと、わかっているのですが、じゃあ逃げたらいいじゃないかということもありますが、徴兵制度というのは、そんな生やさしいものではない。逃げればつかまって、銃殺か投獄です。逃げるに逃げられない。

戦争を始めるのはだれか・・・

戦争を始めるのは、われわれ自身ではない。大資本と好戦政治家と職業軍人のトップの軍閥なのです。今のアメリカも大資本が戦争を好んでいます。戦争をやれば儲かる階層がたくさんいるし、経済全体から見ても活性化するのですね。そういう都合がまずひとつあります。それから石油をねらうという戦争があります。また「民主主義」という言葉を掲げて自分達の嫌いな政権…とくにアメリカは、昔から社会主義の国が敵国だった。それで社会主義の国とも対決するための準備をしていた。いずれにしてもそういう打算があるからこそ、戦争があります。

そうしますと、弱い者は災難です。前線にやられたり、罪もないのに空襲にあって死んだり、強い者だけがうまく儲かったり生き残ったりする。戦争というのは、そういうものです。いくら正義という名前を掲げても、国を守るためとか、平和のための戦争とか言いますが、そのようなものあるわけがない。戦争自体が悪なのですが、その悪の戦争に、いやいやながら引っ張り出されるのが徴兵であります。

米兵捕虜の斬首を命令された私

私の参加した小笠原での実戦ですが、私は、落下傘で降下したアメリカ航空兵捕虜の処刑を命じられました。私としては、剣道2段で、たいして強くはないが、全然知らない人よりは、日本刀の扱い方くらいは知っているので、「お前、切れ」と命令されれば、嫌だとは言えなかった。また当時の雰囲気としては、どうせ生きて帰れないのだから、何をやってもいいという気持ちですね。島には1万人程度の兵隊だけがいる。民間人はもう残っていないのです。どうせこの島は最後は全滅だと、みんな思っているのですから、生きている間は何をしようといいのですね。でも悪いことはしたくない。だが、敵であるアメリカ兵をやっつけるのだったら、大喜びでやっつける雰囲気だった。私は好みで人を切る…ということはないけれど、切ることにさほどの抵抗はなかったのです。切れと言われれば切る…これも、ひとつの戦争だというくらいのものだった。

ところがその前日に、自分から名乗り出た私より剣道のうまい人がいた。4段なのです。急に上官が「土屋が2段で、もう一人が4段ならお前の方がやれ」と言うので、喜んでその人が引き受け、ものの見事にやった。切ってその首が前にバラッとぶら下がって血を噴き出して倒れた。途端に拍手喝采なのです。兵隊の見物人が…。その翌日から、その人は意気揚々と歩いた。島のなか で英雄なのです。戦争をやっている間は、その人はよかったのだと思います。

ところが、8月15日に戦争は終わった。それで12月に復員。東京に帰ってくる船のなかで「みんな黙っていてくれよな。あのことだけは秘密にしてくれよな」「もちろんだとも」と…私がやったかもしれない。みんなで秘密にしなければ、切った人をみんなで守らなければいかん。みんなで口をつくんだはずだったのに、残念ながらどういうわけか、アメリカ軍にそれが漏れた。MPという憲兵と地元の警察が、その人の郷里を訪ね、逮捕しにきたのです。その人は東京で学生に戻った。ちょうど私も同じですが…。それでその人は郷里に帰れば捕まってしまう。そのことを電報か何かで知って、捕まる前に頚動脈を切って自殺しました。

私はそのことを聞いて、本当に申し訳ないことをしたと思いました。私の身代わりになった。お墓参りに何度も行きました。しかし、今となっては、お墓参りに行っても喜んでくれはしないだろうと思って、最近はご無沙汰しています。だが、しばらくの間は、その人に対して気が済まなかったのです。そんな体験をしました。

処刑された米兵はわれわれの部隊で預かり、何日かの間は、私が彼の面倒を見ていました。数え年と満年令のちがいはありましたが、共に22才だったのです。彼の話では,師範学校の出で(私の記憶)、まだ恋人はおらず、郷里に母親が待っているとのことでした。処刑の日は、私が当直将校でした。父島の最高司令官の命令で処刑をせざるを得ない 、という意味の短文を私が紙片に記して彼に示したときは、さすがにビクっとして体を硬くしましたが、その時読んでいたワシントン夫人の伝記本を伏せ、静かに立ち上って、眼かくしに応じ、私に手を引かれて刑場まで歩いたのでした。 魚雷艇隊司令の宣告の言葉のあと、彼は小さい声で、「お母さん、さよなら」と言いました

潔く死んでいったその姿が忘れられません。本来なら私が死ぬ運命だったのです。一度死んだものと思い、勇気を奮って生きてきました。私は今日に至るまで、彼の名前を忘れたことはありません。

731部隊細菌戦訴訟とは

当時の満州国(現在中国東北部)という日本が作った植民地国家に、傀儡政府をつくり、日本の利益のため、中国の一部を占領していました。その満州のハルビンのすぐそばに、平房というところがあり、そこに広大な面積を占拠して、実験場を建てました。人体実験をやる場所です。捕まえてきた気に入らない人たち、スパイだとか言って連れてきた中国の人たちを囚人にして、黙っていても死刑にする人たちですが、それならもったいないから人体実験しろということなのです。

三千人を人体実験で殺しました。ペスト菌を人間に感染させ、何日で発病するか観察しました。その苦しみ方も実験で記録しました。それから凍傷で人が死ぬには、どれくらい時間がかかるかとか…、手だけを零下何度のところに出しておけば何時間で、色がだんだん変わっていくか…、何時間で壊疽状態になるかとか…。それから水を何日与えなければ死ぬか…、水は与えるが、食物は与えなければ何日で死ぬかとか、そういう人体実験をやりました。

こういう鬼とも悪魔ともいえることを、満州の日本軍はやっていました。しかもできあがった(培養した) ノミを浙江省、湖南省とかに行って、罪もない街の中にいる人に、また平和な村にまき散らしたのでした。どうして急に病気になったか、向こうは知らない。結局何万人と殺されています。それをやったのが731部隊です。だから「 日本の政府は731部隊がやった事実を認めなさい、それに対する反省をしなさい。その被害者たちに賠償をしなさい」という裁判であります。

「国家無答責」だから責任はないという

私は、この裁判の弁護団長をしているのですが、始めてから7年(2004年現在)になります。第一審では事実は認めた。ただし、法的には認めない…。なぜか?日本には次のような制度がありました。国際的な尺度で見ると、非常にお粗末な、伝統的な制度で「国家無答責」という。公権力は悪をなさないということなのです。

しかし、責任を取らせるのが、われわれ弁護団の使命です。そのためには中国に何度も足を運んで、現地の人たちと会いました。また現地の人たちが証言をするために、東京の法廷にまで出てきています。それで第一審では、事実は認めたけれども、国には法的には責任がない、「国家無答責」だから・・・と。本当に情けないことです。

沈黙は、いまでは大罪です!

アメリカに追従する日本、そして軍隊をささげる日本。これは日本国憲法に反しています。総理大臣が率先して憲法を変えようとしています。日本国憲法は世界に誇るべき憲法です。しかも特に 大事な(戦争を放棄した)第9条は、世界に広めるべきです。ヒロシマ・ナガサキの被害を受けているこの日本が、自ら進んで憲法9条を変える…、こんな情けない話はない。それが現在の政府の愚かさであります。

戦争に負けて終わったら、自分たちは二度と再び同じ過ちは繰り返さないと言ったのですが、今は批判的なことを言う一般新聞が、ほとんどありません。今、戦争反対をどんどん叫んでもいいのに、叫ばなくなりました。そして国民もおとなしくなった。こうしているうちに、現実はどんどん進行していきます。そこで私は「沈黙は大罪である」と言いたい。

昔も、もっと大きな声で叫んで戦争反対をやればよかったのに、なぜあのとき有識者らは、叫ばなかったのか…。昔は叫ぶに叫べない。治安維持法があり、叫んだら罰せられるから。今は叫んでも罪にならないですね。にもかかわらず叫ばない。これは情けない。

もし皆さんが沈黙していて、本当に、果たせるかな戦争になってしまったら、子供、孫たちからなぜあのとき叫ばなかったのだと、それこそ本気で怒られるでしょう。「今、叫ばずは大罪なり」こういうことを私は言わざるを得ない。

平和を築く確かな近道がある

平和を築く、もっと近道な方法、しかも確実で永久で、真っ直ぐな道、しかも経済的にもコストもかからない道。それは何か…。過去の戦争の過ちを素直に振り返ること、そして振り返って、心から謝ることです。許しを乞うのです。許すか許さないかは相手です。でもこちらは、誠心誠意、謝るべきです。

私の知っている人に、731部隊に参加した人がいます。下っ端の方だったのですが、実験台にされた中国人を目の前にして涙ながらに率直に白状しています。申し訳なかったと、大勢の前で告白した。それで中国からきた犠牲者の遺族、その人たちが、ワーッとかけよってきて、その人に握手を求めてきたのです。そのくらい誠意を認めれば許すのです。しかし日本政府がやるのであれば、手ぶらではだめです。ものごとすべて、自分の側からだけ一方的に考えていてはだめです。相手の立場に立ってみなければだめです。

私も余生を、反戦、平和、改憲反対運動に捧げたいと決意しています。


土屋公献(弁護士):東京大学法学部卒業、日弁連会長(1994−96)
             「731部隊細菌戦被害国家賠償請求訴訟」弁護団長