叔父 ルイス・リードについて

ノーマン・リード, Jr.

私の伯父ルイス・リードは、やさしく物静かで知的な人物でした。私は彼が自分への関心を惹こうとしたり、声を荒げるのを、一度も見たことがありません。他人の悪い振る舞いや驚くほどの悪行を聞かせられても、彼は下を見て、少し笑って頭を振るだけでした。彼は決して噂話に加わることはありませんでした。私は、彼が日本人の、そしてどんな人の悪口を言うのも、聞いたことがありませんでした。唯一例外は、戦争犯罪で絞首刑になったある日本人捕虜収容所長でした。口に出しては言いませんでしたが、彼がそのことを気の毒に思っていないことは、私にもわかりました。

ルイスは、幾つかの素晴らしい特性を持っていましたが、彼が生涯で達成したことと彼が耐えた悲劇を思うとき、最も際立った特性は、忍耐だったと思います。この特性こそが、何より捕虜だった彼の命を救ったのでしょう。

ルイスは彼が6歳の時、悲劇的な状況で母を失いました。未婚の叔母が、彼の父と二人の弟と一緒に住み、三人の男の子を育てることになりました。彼女はおそらく三人の子を育てるという大変な仕事を一生懸命したのだと思いますが、やはり実の母に勝る愛情はありませんでした。

ルイスと叔母はあまりうまくいかず、彼が7歳か8歳の頃家出をしてしまいました。父親の鉄道パスを使い、ミズーリ-カンサス-テキサス横断鉄道に乗ってダラスまで行きました。彼の叔父のベンが何とか彼をダラスで拾い、ルイスの父親に彼を罰しないよう約束させた上で、送り返したのです。

ルイスは、テキサス州のニューブラウンフェルという町で育ちました。それは、透き通った川が流れる美しいドイツ系の町でした。町の端には石灰石の洞窟があり、ルイスがよくその洞窟で何日も何週間も暮らし、食糧と必要品を調達するためだけに夜中に家に帰ってくるものだったと、私の父は言っていました。

1936年、ルイスが16歳のとき、彼の父親はウィチタフォールの鉄道病院に入院しました。彼は駅で父親を見送ったのですが、それが父を見る最後になることを知りませんでした。彼の父は、3週間後に喉頭がんで亡くなったのです。

ルイスはその後じっとしていませんでした。彼は別の叔母としばらく暮らし、ある時は別の少年と貨物車に乗って放浪者のような暮らしをしていました。幸運にも、サンアントニオの陸軍航空隊の幹部候補生だった彼のいとこが、彼を引き取り、彼の宿舎で暮らさせました。この環境は、ルイスがまともな道を歩む助けとなったのです。

戦時中、バターンの兵士たちは、弾薬も補給も食糧も充分でない中で、用意周到な日本帝国軍と果敢に戦いました。ルイスは、生き延びるためにとかげや虫も食べました。キング少将に降伏するよう命じられた時、彼らはそれに従いました。彼らが日本軍に厳しく扱われた理由の一つは、平均的日本兵(そして後に朝鮮人捕虜監視)が、死ぬまで戦わずに降伏する者は人間以下であると感じていたからでした。

ルイスが暑いテキサスで母親無しで他の大人の世話も受けずに育った体験が、バターン死の行進とその後の捕虜生活・奴隷労働を生き延びるのに役立ったと、私は感じています。しかし私は同時に、戦時中の捕虜体験を生き延びたことが、戦後の幾つかの悲劇を耐えることも助けたのではないかと思います。ルイスと彼の妻は、四人の素晴らしい子供に恵まれたのですが、一人の男の子が子供時代に、一人の女の子が若い頃、そして別の娘が中年になってから、それぞれ亡くなりました。

戦争が終結した時、アメリカはバターンからの生還者を、英雄として称えることができたはずです。実際起こったことは、恥ずべきことに、彼らに対する無関心か時にはそれよりも酷いことでした。彼らがどれほど精一杯に戦ったとしても、彼らの生還がどれほど立派なことだったとしても、キング少将の命に従って降伏した兵士は、勝利に沸きたつ当時のアメリカのムードにはそぐわなかったのでしょう。彼らの帰還はもっと暖かく迎えられるべきだったと思います。
 


リード兄弟:左端ノーマン(筆者の父親)、右端ルイス
 

1998年の4月、私自身もバターンに行ってみました。私の目的は、バターン死の行進の道を辿り、ルイス伯父さんがいた場所を見て、当時の状況をおぼろげにでも感じてみることでした。私が子供の頃、テキサスの夏の暑さに耐えかねて、エアコンを買って欲しいと父親に懇願したものでした。私は、買ってくれない父をけちな人だといつも思っていたのですが、きっとそれも一つの理由だったに違いありません。でも今考えてみると、彼は、私がテキサスの夏を耐えられるくらいタフになって欲しいと願っていたのでしょう。そして私は実際タフだったと思います。でも、私はバターンに耐えるられるほどタフではありませんでした。私は、4月のバターンのジャングルの熱気に耐えることができず、歩くことをたちまち諦め、小さなバスに乗ることにしました。天候はルイスが直面した困難の一つの要素にしか過ぎなかったことを知る私は、その時、伯父がどんなに強い人間だったかを改めて認識したのです。

ひとつよかったのは、バターンで乗ったバスが楽しかったことでした。それらは、立派なバスのこともありましたし、スクールバスをそのまま使ったようなものもありました。楽しい驚きは、フィリピンの人々が、カラオケ機が取り付けられたバスでよく歌うのを、発見したことでした。

ちなみに、私は東京で育った素晴らしい日本人女性と結婚していて、10歳と12歳の息子に加え、可愛らしい2歳の息子がいます。私たちはオレゴンに住み、私は地質学者として働いています。
 

ルイス・リード氏の思い出
徳留絹枝

故ルイス・リード氏には特別な思い出があります。2004年5月私は、スタンフォード大学で開かれた内輪の小さな会議で、マイケル・アマコスト元駐日大使の隣に座って、日本軍捕虜米兵に関する発表をするという貴重な機会に恵まれました。私は、自分の生まれ育った場所からそれほど遠くない鉱山で強制労働に就かされたリード氏を訪ねた話から発表を始めました。私が撮った最近の鉱山の写真を見ながらリード氏の記憶が鮮やかに甦った様子を説明しました。私は捕虜の歴史に人間の顔を与えたかったのです。この歴史が今でも日米の人々を繋いでいることを、強調したかったのです。私はアマコスト大使の心を動かそうと一生懸命でした。

会議が終って数日後、私はアマコスト大使に手紙を書き、元捕虜が戦時中の非人道的扱いについて日本政府から謝罪を得られるよう支援して欲しいと頼みました。彼はすぐ返事をくれましたが、自分にはもう日本政府に対する影響力は無いから、現役の担当者に直接訴えるよう提案していました。そして「諦めないで努力を続けなさい。」と書いていたのです。

リード氏は金銭的な補償に一切関心がありませんでしたが、それでも、日本政府は元捕虜に真摯な謝罪をするべきだと、言っていました。

元日本軍捕虜の最後の総会が開かれたサンアントニオに、藤崎一郎駐米大使が来て、日本政府を代表して謝罪をするまで、それから5年の年月がかかりました。私はその場にリード氏が居て欲しいと願いました。彼が来たがっていたことは知っていましたが、病気で叶わなかったのです。彼は、2011年5月に亡くなりました。

今回、リード氏の甥であるノーマン・リード氏から、「私たちには、可愛らしいトラという名前の2歳の息子がいます。 あなたのウエブサイトにある伯父の写真を見たら、彼とトラの笑顔がよく似ていることに気付くでしょう。」 と書かれた
メールと写真を受け取り、本当に嬉しく思いました。
 

        


* ルイス・リード氏の捕虜体験はこちら。