ドナルド L. ヴァーソー
1921年ニブラスカ州ブルーミントン生まれ

- 米海兵隊第四部隊 軍楽隊
- カバナツアン収容所、クラーク基地、「
福岡捕虜収容所第
7分所(二瀬)
 
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音楽と海兵隊軍楽隊
第二次世界大戦前、海兵隊軍楽隊員として中国に配置されることは、名誉であり特権でした。緊張に満ちた時期ではありましたが、その地にできるだけよいアメリカの印象を与え、アメリカの勢力、優秀さ、尊敬の象徴になることは私たちの任務でした。それはアメリカの国益に叶っていましたし、その地で商業に従事するアメリカ人や友好国国民に安心感を与えていました。小さな規模ではありましたが、私たち軍隊のプレゼンスが、願わくば自由と公正な貿易を維持するというアメリカの強い意思表明となることを願ったのです。

海兵隊に志願
大学一年が終わった夏、私は新学期のために必要なお金を稼ごうとしていました。コロラドの小麦畑で働きましたが、目にばい菌が入って炎症を起こし、数ドルのコインをを手に家に帰らなければなりませんでした。それがよくなった後、秋の仕事を探しにシカゴに向かいました。大学に戻ることは既に選択肢からは消えていました。仕事は何にもありません。そんな時私は、電車の中である広告を見たのです。「海兵隊の軍楽隊員!」 ステート通りの徴兵事務所を私が訪れたのは、1939年の終戦記念日(第一次大戦の)でした。13人が面接を受け、3人が合格しました。私はその3人の中に入ったのです。彼らは、私の身長が7ミリほど足りないが、補充兵訓練に行く途中でその位は伸びるだろうから、合格にしてやると言いました。身長は伸びませんでしたが、私は基礎訓練に耐え残り、サン・ディエゴの海兵隊基地の軍楽隊に配置されました。

数ヶ月後、私は選ばれて、上海の海兵隊第四部隊の軍楽隊員として派遣されることになりました。海外に行くのは誇らしいことでしたが、軍の輸送船が中国に着くのに2ヶ月もかかりました。その地に暮らせることを幸運に感じ、その後20ヶ月にわたって、私は軍楽隊で演奏することを満喫しました。

海兵隊は上海の共同租界に14年も駐屯していましたが、1941年11月、日本と交戦状態に入る恐れが色濃くなり、アメリカはついに全ての武装部隊に中国から引き上げるよう指令を出したのです。海兵隊、一隻の巡洋艦、何隻かの古めかしい駆逐艦そして河川巡視船は、アメリカ人とその権益にとって最後の守りでしたから、その決断は決して簡単ではありませんでした。

1941年11月28日、海兵隊第四部隊の最後の隊が上海を去るその日は、名高い共同租界にとって悲しい日となりました。南京東路から輸送船の待っている黄浦江まで行進する海兵隊を先導したのは、「ラスト・チャイナ・バンド」として後に知られる私たちの軍楽隊でした。

軍楽隊をフィリピンに輸送した船は、スービック湾の海軍基地に私たちを降ろしました。私たちが入る臨時の宿舎はまだ建設中で、12月8日に戦争が始まったとき、まだ完成していませんでした。私たちは楽器を再び見ることもなく、ただちに歩兵部隊に移籍されてしまったのです。1941年12月をほとんどそこですごした後、私たちはバターン半島をトラックで抜け、最終的にはコレヒドール島に移りました。海兵隊第四部隊はそこで、フィリピンに以前からいた部隊と共に、コレヒドール島要塞の海岸防衛軍に再編成されました。私たちの到着に間をおかず、コレヒドールの戦いが始まりました。それは主に航空爆撃と砲撃による包囲攻撃で、フィリピン全土が敵の手に落ちる5月6日まで続きました。

降伏の後、ほとんどのアメリカ兵捕虜は、ルソン島の中心部にあったフィリピン陸軍キャンプに集合させられました。

カバナツアン収容所キャンプ3
私はある朝、その日が何か特別な日であるように感じて目が覚めました。1942年6月23日、私の21歳の誕生日でした。もし家にいたなら、父は時計か何かのプレゼントをくれていたでしょうし、母はケーキを焼き、夕食に何を食べたいか私に訊いていたでしょう。周りの仲間には、その日が私の21歳の誕生日であることは黙っていました。誰も、自分の誕生日の話などはしなかったのです。

マラリアと赤痢が急激に増え、道路の反対側に隔離病棟を設置しなければなりませんでした。わずかなご飯に小さな肉片が入っている以外は、どちらの側の食事も似たようなものでした。

それから海兵隊第四部隊軍楽隊の副隊長だったレオン・コニスキー二等軍曹の埋葬がありました。従軍牧師のトランプ中佐が短くも感動的な言葉を述べ、4人組のコーラス隊が歌い、どこからかは永別のラッパが聞こえてきました。「ああ。我らの"スキー"を何とかねんごろに葬ることができてよかった。」と誰かが呟きました。レオンは赤痢で死んだのです。病気にやられて彼は打ちのめされていました。私が彼から最後に聞いた言葉は、生きる希望を失ったことそして捕虜として生きることの苦しみから逃れたい、という告白でした。彼が長く苦しまなかったことは、せめてもの慰めでした。死が訪れるまで、果てしなく苦し まなければならない者もいたのです。

かつては誇り高く才能に溢れた人物がこのように死んでいくのを見ることは、悲しいことでした。数ヶ月前の上海で、彼は軍隊行進曲を作曲し、第四隊指揮官デユーイット・ペック大佐に捧げて、表彰を受けていたのです。コニスキー二等軍曹が浅い墓に埋められ、草と私たちが近くから摘んできたわずかばかりの野辺の花で覆われて横たわっている姿は、何と哀れな光景だったでしょう。なぜかわかりませんが、何十年経った今でも、その光景は私の脳裏にくっきりと焼きついて離れません。

カバナツアン収容所キャンプキャンプ1
収容所が移動するという噂を聞いた後、キャンプ3がキャンプ1に統合されることが、正式に発表されました。それで私たちはわずかな身の回りの物をまとめて、もとの道をもどる運命の日を待っていました。

私は最初の編成隊に入りました。多くの捕虜はトラックで移動しましたが、まだ歩ける状態だった私は、どんどん小さくなっていくこれまでのキャンプを思いながら、石ころだらけの9キロの道を裸足で行進しました。「ちぇ。今思えばそんなに悪いキャンプじゃなかったな。」行く手に待っているキャンプよりは確かにましだったのです。

陽光がまぶしい晴れた日でしたが、キャンプ1に足を踏み入れると、そこは厚く暗い雲に覆われたような場所でした。荒れ果てて不潔で、人々の士気は限りなく低く、熱気は私たちが山際のキャンプで味わったことがないほどの暑さでした。せせらぎも木々もなく、水も濁っていました。

規模としては、軍捕虜キャンプ1はキャンプ3よりずっと大きいものでした。捕虜たちは3つのグループに分けられ、正門前の道路の反対側に建てられた病棟に収容されているのが、最大のグループでした。私が到着する少し前には、2500人もの患者がそこに溢れていたそうです。それを超えると、次に大きい"忌まわしい4番目のグループ"は墓地でした。その時点で、既に2千人近くの者がそこに埋葬されていました。彼らは最も悲惨な戦い…治療を受けられない傷、熱帯の疫病、栄養失調、飢え、放置、日本軍からの残虐行為などとの戦い…の犠牲者でした。このキャンプの主な活動は、死人を埋葬することのようでした。

埋葬作業
私たちは、赤痢に蝕まれ萎びた裸の死体を、棺にも入れず覆いで包むこともせず、1マイルほどの荒れた道を担いで運びました。キャンプ1で古参の捕虜が、これは少ない方だと言いました。以前は、通常の作業で80人かそれ以上の死体を毎日墓場に運んでいたのだそうです。全ての墓穴はたった90センチほどの深さで、これに数体の死体を埋めていくのです。穴掘りの作業班が、事前に必要なだけの穴を掘っていました。墓地の地下水の水位はとても高く、わずか掘っただけで、最低でも30センチくらいの水が底に溜まってしまうのです。

私たちは最初の数体の死体を水の中に並べます。そしてその上に次の死体、また上に次の死体というふうに…。上にくるにつれて、皮をむいた白い芋が詰まったなべのように、水は見えなくなっていきます。私たちは、全ての死体を二箇所の墓穴に納めました。私が担いだ将校の死体は、硬直したその遺体にシーツがかけられ、別に埋められました。誰かが、彼を生前知っていたと言いました。海軍の歯科医だったそうです。

「日丸」:恐怖の船旅
1944年7月17日、収容所の大きな門が開かれ、私たちはほとんど誰もいない市街地の通りを行進させられました。間もなくマニラ埠頭に着き整列させられた私は、これまでこんなに埠頭の近くにいたのかと、驚きました。私たちの多くは、目の前の埠頭に繋がれている斑に錆びた運輸船「日
丸」の中でこれから自分たちがどんな目にあうのか、想像もしていませんでした。どう見ても、その船には私たちの半分も乗れそうにありませんでした。

既に700人近くの捕虜が、私の前に船倉に入っていました。そして後には800人が控えているのです。日本兵は、ごみ袋にごみを入れるときのようにに私たちをぎゅうぎゅう押し込んでいきました。彼らにとっては、私たちはごみのようなものだったのです。私は床窓の入り口から奥のほうへと、押し込まれてしまいました。薄暗さに慣れた私の目に入ったのは、囲いの部分の下の就寝用の木製の段でした。それらは150センチから180センチくらいの高さを50センチごとに幾つかに区切ったもので、ペットショップの動物が入る檻のようでした。一つの隙間に自分を押し込んでみましたが、私のような小柄な者にでさえ、それはあまりにもきつ過ぎました。肘をついて起き上がることさえできないのです。次から次へと捕虜が押し寄せてきて、後には行くところがありません。完全に閉じ込められた状態です。監視員は明らかに、列に並んだ1人用の空間に5人以上を押し込めようとしていました。

7月26日、私たちは米潜水艦の攻撃を受けました。私は時計を持っていませんでしたが、何年も後になってそれが午前2時11分であったことを知りました。"ブーン"という音がしたかと思うと、別の大きな爆発の光が空を走りました。既に船のサイレンが鳴らされ、監視員は頭上の甲板を走り回って、私たちが船倉から逃げ出さないよう床窓をふさごうとしています。私たちの船団の駆逐艦が、対潜爆弾を放ち始めましたが、近かったり遠かったりしました。すぐ近くにいた船は被爆しましたが、私はすぐにそれがオイルタンカーだろうと思いました。そうでなければ、あれほどの爆発を起こすはずがないからです。

50年も前に書いたこの箇所を書き直してみると、いかに私たちが苦しんだか、今となってはほとんど信じられないほどです。魚雷が慈悲深く命中し、恐怖と汚物と叫びに閉じ込められた自分たちの苦しみが冷たくて清らかな水で一気に流され、全てが終わることさえ願った者がいたなど、思い出すのも困難です。今考えると背筋が凍りそうですが、それが事実だったのです。そこに居なかった者には、とうてい理解することも信じることもできいでしょう。

二瀬
日本での抑留体験は、それ以前のフィリピンでの2年半とは、かけ離れたものでした。言語を絶する不潔な捕虜船の監禁から解放されて、九州飯塚市の近くの小さな町二瀬に到着してほっとしたものの、これからまた苦しい生活が待っているのだろうかと、私は怪しんだものです。

組織は大変厳しく、民間人監視人と炭鉱班長との接触も密でした。私たちはすぐには働かせられず、日丸での悲惨な体験から回復する時間を与えられました。処遇は大変厳しく、わずかな規則違反あるいは侮辱的態度でもあれば、平手打ちや殴打が待っていました。

私たちは新入りの志願兵のように訓練されましたが、言葉は日本語で、鉱山の専門用語を教え込まれました。仕事はきつくて長時間にわたるものでした。仲間のうちには、鉱山内での作業から逃れようと、自分の腕を折ったりする者さえいました。

しばらくは食事もよいご飯と野菜が少し、時には魚の切り身などでした。やがてそれがどんどん少なくなってきて、限られるようになりました。赤十字の食料箱が何度か配給され、これは本当に助かりました。結局私が耐えなければならなかったのは一冬だけで、またこの緯度での冬はそれほど厳しくはなかったのですが、わずかな雪でも、裸足で立っているのは惨めなものでした。支給されたわらじを鉱山に入った最初の夜に履きつぶしてからは、一年後に味方の飛行機が何足かの靴を落としてくれるまで、私には履物がなかったのです。

捕虜の体験の後は、私はとても幸せな年月を生きて、そのことをとても幸運だったと思っています。日本に着いてから、生き延びられる可能性は大いに広がりました。命を落とす仲間は減り、いろいろな面で条件は大きく改善しました。フィリピンで降伏した後の最初の頃は、何の理由もなく、或いは日本兵を睨んだといった些細な理由だけで命を失っていたかもしれないのです。私が生き延びたのは、砂浜で生まれた小亀が海に戻ることより、危ういことだっと思います。

捕虜であった期間中、私はただその日その日を、戦争が終わって自分の国と家族のもとに帰れる日のことだけを前向きに見据えて、生きることができました。天の偉大な力が私を見守り私の歩みを導いてくれると、いつも信じていました。生き残ったことへの感謝と恩は、未知の人々にも及びます。その中には、私が知らぬ間に(そしてこれからも知ることはないであろう)私の生還を助けてくれた敵国の人々さえ含まれていました。これらの人々に感謝することを、私は忘れてはならないのです。どんな時にも。
 

*ヴァーソー氏は2010年、日本政府米元捕虜招聘プログラムで来日し、二瀬の炭鉱跡地を訪ねました。 2010年元米捕虜日本訪問
 

旧二瀬炭鉱の門の前で娘のジュディさんと(20009月)
記念碑の中には、当時の二瀬の写真が埋め込まれています


「生きる意味」の意義

親愛なるドナルド・ヴァーソー様

あなたの戦争体験の証言は、戦争にこだわり、日本のアジアに対する加害責任を問い続けてきた私にとって、まことに興味深いものでした。ドナルドさん、あなたは終始事実を事実として語っていらっしゃいますね。それだけに、一つひとつのご体験が胸に突き刺さります。19歳の海兵隊ミュージシャンとしてまず中国へ、その後フィリピンに送られそこで日本軍の捕虜となり、さらに日本に連行され過酷な労働を強いられたにもかかわらず生還なさったあなたの戦争体験は、数奇なものです。万感の思いで行間を拝読させていただきました。ご証言の中に出てくるルソン島中部の地名はその風景とともに、わたしにとってはなじみ深いものですので、追体験をするのに大いに役立ちました。

私は1934年キリスト教徒の家に生まれましたが、日米開戦の1941年「国民学校」に入学、天皇を「現人神」とする皇民教育と軍国主義思想をたたき込まれたのでした。これは端的にいえば「天皇のために闘って死ね」という教育です。戦後私が戦争にこだわるようになったのは、まずこのような戦中体験があったからです。

さらに1951年、16歳の夏、私はフィリピンの一青年と出会い、彼を通して戦争中の日本軍がフィリピンで犯した残虐行為について知らされ、深い衝撃を受けました。彼は、自分の父親や弟を始め、いかに多くのフィリピンの人びとが日本軍の犠牲になったかを、涙ながらに語ってくれました。彼の家族は全て民間人として「死の行進」を体験していたのです。

その後大学で教鞭をとるようになった私は、1985年、初めてフィリピンの地を踏みました。そこで私が確認したことは、戦争はまだ終わっていないということでした。戦争の傷跡は今なお人々の心に深く刻まれており、それに加えて、国民の7割以上が貧困にあえぐ現実を目の当たりにし、「自分のあり方・生き方」を根底から問われるという恐ろしい体験をしました。

その後2年間、私は「何ができるか」「何をすべきか」と悩みつつ問い続けました。その結果たどり着いたのが「フィリピン体験学習」という学生のためのプログラムでした。つまり、フィリピンの現状と人びとに触れる中で、日本の学生たちに「豊かさとは」「幸せとは」「生きるとは」といった根源的問題−生きることの意味−について深く考えてもらおうというものです。私はその二つの大きな柱に、「戦争責任」と「国際協力」をすえました。すなわち、わが国のアジア侵略の歴史をフィリピンの人びとの視点を通して学び、それを踏まえて「どうしたら最も貧しい人びとと共に生きられるか」を考え、ひいてはそれを実践することを目的としたのです。

この体験学習は1988年から16回にわたって続けられ、この間の参加者は100名を越えました。私たちは毎年、あの戦争を心に刻むため、戦争体験者を訪ねその証言を聞いたり、マリベレスからサンフェルナンドを経てタルラックに至る「死の行進」の跡を生き証人と共に辿ったりしました。私たちの3週間は、初めから終わりまで「謝罪と赦しと和解」の旅だったと言えましょう。

私たちはフィリピンの人びとから何と多くのことを教えられたことでしょう。彼らの朴訥な、しかし真実味のこもった言葉に、あるいはその飾らぬ人間らしい生き方に魂をゆさぶられ、価値観の転倒を強いられました。このような分かち合いを通して、学生たちは「フィリピンの貧しい人びとと共に生きよう」と心に決めたのです。

1995年は戦後50周年にあたり、学生たちは自分たちの思いを「平和と和解のステートメント」にまとめ、フィリピンの訪問する先々で発表しました。それは思いもよらぬ大きな反響と高い評価を得ることになりました。このことを通して学生たちが学んだことは、「過去の戦争責任について明確な謝罪の表明なくして、日比間の真の友好はあり得ない」という大切な教訓でした。

ドナルドさん、あなたはフィリピンで生き残る可能性は砂地で孵化したウミガメの子が海にたどり着くよりも小さかったと書いていらっしゃいます。そんなにも過酷な体験をなさりながら、あなたの証言には、恨みや憎しみはみじんも感じられません。それどころか、来し方を顧みてその幸せだった人生に感謝していらっしゃいます。ここに私は、全てをあるがままに受け入れ過去を克服された方の精神の深みを感じないではおれません。

終わりのくだりは全く感動的です。あなたが九死に一生をえて生還された秘密も、またあなたがどんなお人柄かも、全て集約的にここに記されていると思うからです。あなたはいかなる状況にあっても未来に希望を抱き続け、神に対する信仰を失うことはありませんでした。そしてあなたは最後に、ご自分の生存が敵も含む他者に負っていることを告白し、限りない感謝を表しておられます。私はここに、あなたがあなたに対して罪を犯した者をもすでに赦していて下さることをはっきり読み、「救われた」という感謝の気持ちであなたの証言を読み終えることができました。ドナルドさん、あなたの証言はまさにあなたの信仰告白です。

心からの尊敬と感謝の気持ちをこめて。

雨宮 剛
青山学院大学名誉教授


 


最近のヴァーソ−氏

 

*ヴァーソー氏は2014年6月21日、逝去しました。