告白――私の生と「加害の罪」        

渡辺義治

日本の犯した「侵略戦争の加害の罪」。辱められ、無残にも殺された人達がいる。そして生き残っても、今も受けた傷と理不尽さを抱え、苦しみ続ける方々。


レスター・テニーさんたち、日本軍の捕虜の方々を前にして、身の置きどころのない自分という存在。「捕虜は人間以下」、第2次大戦日本軍の狂信的な軍事教育をたたきこまれた看守たちに、捕虜たちは深く人間の尊厳を傷つけられた。私は改めて、私たち日本人の一人として、「犯した罪」とそれを認めないことにより今も犯しつづける「罪」と向き合い、その「罪」を背負い、生きることが、償いとざんげの道なのだと、痛切に思いました。今一度、私の家族の「罪」に、思いをめぐらしています。

罪と罰

私は1947年(昭和22年)生まれ、家族は、父と母、兄、そして私の四人家族である。貧しい暮し、そして、夫婦仲の悪い父と母、暗くて、緊張の中での日々の生活だった。それでも二十代の頃は前向きに生きてゆけば必ず未来には希望があると言い聞かせて生きていた。ベトナム反戦運動等に加わっていた。でも、いつも心の奥には、満たされることのない 不安感と怯え、怖れの気持ちがあった。

1989年のある日、テレビに映った「中国残留婦人」のお一人が「私の戦争は今も終わってはいない」と訴えられた。その一言を耳にした時、自分の中で、これまで抑え込み、沈殿させていた私の心の闇と罪がうずき始めた。

私の父は、1933年(昭和9年)「満州国」の軍隊の将校となった。自ら志願して職業軍人になったのだ。日本は1931年から、関東軍の武力によって中国、東北部を侵略し1932年2月18日「満州国」建国を宣言した。「満州」での父は、120名ほどの雇われた中国人兵を唯一の日本人指揮官として指揮し、各地を転戦しながら、日本側から言うところの「反満抗日」の疑いがかかった中国人を捕らえ、殺していた。ほとんとは罪のない、貧しい、普通の市民だったはずだ。その後、満州国の官吏になり、1945年再び召集を受け関東軍の将校となった。

そして、日本の敗戦を前に、1945年(昭和20年)、八月九日ソ連参戦の時、父たち関東軍の将校達は、密かに自分とその家族だけが夜の闇にまぎれて列車に乗って日本へ逃げ始めていた。自分たちの渡った橋や鉄橋をひとつ、ひとつ爆破しながら。そして私の家族は、何と九月二日、いち早く日本に引き揚げているのだ。

このとき、奥地に配置された関東軍の兵隊がわりの22万余りの「満蒙開拓団」の人々は、 [注:在籍者27万: 内応召4万7千、 実在員 22万3千 (満州開拓史[昭和41]-P436) ]  守られるべき関東軍に棄てられ、奥地の駅で来るはずもない避難列車を待ち続け、とうとう、歩いて長春への「地獄の逃避行」へと追いこめられ、多数がソ連軍、暴徒などに殺され、集団自決、飢え死に等と命を落とされた。そして辛うじて生き残り、その後中国人に助けられた方々こそ、「中国残留婦人・孤児」と呼ばれる方々なのだ。[注:「集団自決:棄てられた満州開拓民」坂本龍彦:岩波書店 200年3月 敗戦後の満州で一般人の死亡20万人、開拓関係者は9万人。うち1万人は指導者が根こそぎ招集されたため「集団自決」に追い込まれた婦女子・年寄りたちだった。]

父は戦後、C級戦犯として、三年間の公職追放となった。GHQに押収された写真の中に、父の命令で中国人の捕虜を殺害する現場写真が残されていたのだ

私の父は日本の中国侵略の尖兵として、多くの中国の人たちを、殺し、傷つけ「加害の罪」を犯した。振り返ると、私は物心ついた頃から自分の誕生そのものの中に罪があると漠然と思っていた。私たち家族は何か大きな罪を抱えて生きている。そして、その罪のために決して幸せにはなれない。いや、幸せになってはいけない。そういう立場の人間達なのだという意識があった。

私が小学生くらいの頃だった。夜中、突然父がうなされて飛び起きる。その時の父は、脂汗を流し、眼は恐怖に引きつり、それはまるで鬼の形相だった。そんな父の姿を見る度に私の心は凍った。恐かった。父と母の仲は悪かった。家庭では、お互いが気を許して話をしたり、笑いあったりすることは皆無だった。そして、つまらないことで、口論しようものなら、父は突然、ご飯を食べるテーブルをひっくり返したり、怒鳴って食器を投げたり、母を殴り、ひどい時は、髪の毛をつかんで、ひきずりまわすことまでした。私は父の暴力に、身を縮め、心を固く閉じて、父の怒りが収まるのを待つしかなかった。

やがて母は暴力を振るわれる度に、自分というものを失くしてゆき「自分は動物だ。動物になる」と言いだし、体の変調がひどくなり、一日の半分は病で伏す生活が続くようになった。私が中学生の頃だ。家事も放棄してしまい、私もやれる限りの手助けをした。私は大学を出ると、父と母を棄てるように暗く重い日々から逃げ出す様に東京へ出た。

そして・・・その十三年後、母は自殺した。

父は亡くなる三年くらいから母へのいたわりを持ち、家事の全てを引き受け、母へ懺悔するかの様に静かに暮らした。ある日、「お母ちゃんのことはお父ちゃんにまかせろ」とポツンと一言言った。私は衝撃を受けた。まさか父からそんな言葉を聞くとは、晴天の霹靂だった。そして思い知らされた!私は傲慢だったのだ。母を救えるのは「自分しかいない」そう思い、父と母を馬鹿にし、時に、二人を憎悪していたのだ。私は己の浅はかさと、己れの「加害の罪」を思い知らされた。

その父も、侵略戦争の担い手となった自分を省みることはなく、母の自殺の一年前に亡くなった。そして私は、妻と結婚して、しばらくの間、父と同じく妻に暴力をふるっていた。自分の弱さと自己防衛心を隠し、誤魔化そうとする。ひきょうさが心を支配し、相手への憎しみと破壊心が心を支配する。私は「罪」を重ねつづけた。

 
中国への旅

一九九一年、私は妻と共に中国東北部「満州」に行った。かって父や母が暮らした町へ行き、又、侵略のつめ跡残る各地を訪ねた。長春で関東軍の将校が日本刀・軍刀を高く揚げ笑っている写真を見た。その将校の足元に中国の若者たちの「さらし首」が!ジーっとその若者が私を見ている。私は身じろぎ一つできない。まるで今にも写真を突き破って、私にしがみついてくるように迫ってきた。そして、写真の中の将校と父が重なった!

日本人将校が日本刀を高くかかげ、仁王立ちして笑っている。その足元に中国人の青年達の「生首」が整然と置いてある!!日本軍のこの狂気の刹那と退廃の極み!・・・この極みだ!この極みの中に、私達家族の戦後の日々はあった!

そして私は、ここから生まれこの刹那と退廃の中で育った。私は、この刹那と退廃から逃れたかったのだ。そして両親を見捨てた・・・それが私の闇・・・・。

父は命令した「斬首!!」

父の命令でころされたであろう、その人たち、十数人の青年が一斉に私を見る!その人達の・・・声が聞こえる。
 

「私達は生きている。永遠に生きている。見ろ、この顔、この首を・・・ここに来て私の見えるこの前で息をしてみろ。

弔うならこの姿を写せ。そして永遠に残せ。

弔うなら私を「しゃれこうべ」にして万人に見せるのだ・・・ガラスで囲って私を永久に残せ。そここそが私の墓。私を殺した日本人に、その家族にいつの日か見せるのだ。

・・お前がその家族か!・・・!やっと来たか。。。やっと来てくれたか・・・!ああ!!・・・やっと来てくれましたね・・・!ああ!・・・うれしくて・・・心が・・・なくなりかけてゆく・・・! 

いいですか、よーく聞くのです・・・この我身、我魂を貴方の日本人のその愛の中に命がけで生かさしめるのです。手の、足の、体のないこと首を貴方の、その日常の中に生かさしめるのです。

・・民族の卑怯さを、人としての卑怯さを太陽の下に印すのです。

私たちは生きています。

永遠に生きています。」
 

日本軍の刹那と退廃の源が、十字架の光の中で、弥陀の手の中で、人間の良心の許で赤い血となって永遠に黒く洗い出されてゆく・・・

日本人はいくらお金があっても幸せにはなりないであろう・・・中国、アジアの人々、そして連合軍捕虜たちの怨念と怒りが消えない限り。

今、幸せな人がいるとしたら・・・それは徒花にすぎない。
 

「再会」

俳優である私は台本を書きはじめ、「再会」の上演を始めた。私の家族の加害者としての人生を告白しつつ、中国残留婦人のひとりが一時帰国して、再婚し日本で町工場を営む元の夫と双方に痛み多い再会をする物語である。

93年から12年間に妻と私は日本全国、そして中国、米国、カナダで公演し、12万人の方が観てくださった。数多くの人々、特にいまはこれらの国に住む中国系の方々に支えていただいた。




2001年アメリカ公演プログラム


2005年「再会」のプログラムから妻で共演者、横井量子の文章を引用する。

私たちはこの12年間、夫と同じ苦しみ、哀しみの人生を生きてきた人々と出逢いました。戦争は加害者の側にとっても終わっていなかったのです。

父からの憎悪をひきずり、その情愛につぶれる自己と闘い、やっとの思いで命がけでその自己愛を捨てることから自らのアイデンティティと対決していった夫。12年前、はじめて中国東北部、"旧満州に行って、父たちが加害した中国人の方々に逢い、罪を問い掛けられ、また彼らに問いかけ、認識を新たにした夫。戦犯であった父、自殺した母を恥としておびえていた夫と私。その私たちこそ罪人だと教えられたのです。今は亡き両親を抱きとめ、さらすことの中にこそ、両親の魂と私たちの魂が今という時間のなかに共に生きていけることが可能になると教えられたのです。そうすることで新しく生まれた私たちの生命の意味があるのだと、多くの支援者の方々とお客様に無言のうちに教えられたのです。

  「加害者の戦争体験」のむごさは、殺した記憶、苦しめた記憶から解放されることなく、また一生「自己確認」をできないという人間性背信をいく世代にもわたって背負わされてしまうことの恐ろしさだと思うのです。 

彼はそこを命からがら、なんとかこえることが、それこそ多くの方々の励ましとまた彼自身の努力とで、できたのです。子どもを持つことさえ拒否した彼が言いました、「今なら子どもがほしいと思えるようになった。でももう無理。」けれど、おかげさまで、私たちの子供、「再会」をこの世に誕生させることができたのです。ひとりでも多くの皆さま、劇場でお待ちしております。こんな私たちですが一生懸命つとめさせてください。
 



横井量子氏と渡辺義治氏(「再会」の舞台で)


今年秋からはさらにテーマを広げた「地獄のDecember:哀しみの南京」上演を予定して初稿を書き上げている。

父と共に

私は幸せにならない事で自分の生をみつけようとした。それが戦犯の息子としての裁きであり、私の戦争体験でした。

父よ、私の努力が足りずに、あの世で裁かれるなら・・・貴方と一緒に裁かれたい。いや、

もう一度、生まれ変わりがあるのなら・・・いく重にもかけて・・・この罪と罰を、魂にきざみ懲悔の「生」を生きてゆけたら、と思う・・・。


資料

満州開拓史:満洲開拓史刊行会/発行:昭和41年4月17日) 
昭和55年8月1日に復刊発行(企画編集:満洲開拓史復刊委員会/監修:社団法人全国開拓自興会/発行:全国拓友協議会)

下記サイトで資料として使われている:

まんしゅう母子地蔵を守る会:

http://www.kikokusha-center.or.jp/resource/ioriya-notes/mondaishi/sangeki-2.htm

中国残留婦人の永住帰国の実現に関する質問趣意書:

http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/syuisyo/128/syuh/s128001.htm