イ M. ウィーバー

1919 ワシントン ビックルトン生まれ

- 海兵隊
-
コレヒドール、ビリビッド刑務所
 「鳥取丸」、奉天収容所
 

農場の少年から海兵隊員に

私は1919年、ワシントン州ビックルトンという人口がたった97人の小さな町で、生まれました。父は農夫で、母は教師でした。彼らは大恐慌のさなか酪農を営みながら、1938年に高校を卒業するまで、私を育ててくれました。乳牛の世話などまっぴらで、かと いって仕事のあてもなかった私は自分で決心して、その年19歳で米国海兵隊に入隊することになりました。軍隊の生活には以前から魅力を感じていましたし、当時空きがあったのは海兵隊だけだったのです。

私はサン・ディエゴに行きました。厳しい新規兵訓練(と言っても、働き者で規律正しい農場の少年にはそれほどつらくなかったのですが)に生き残った後、私は第6海兵隊に配属されました。そして1940年6月初旬まで、サン・ディエゴの海兵隊基地に勤務しました。

ある日軍曹が宿舎に、アジア地域基地への赴任を希望するものを、探しに来ました。冒険と旅行がしたくてたまらなかった私は、大砲から弾き出された弾丸のような勢いでベッドから降りました。こうして私は、”決して自分から志願するな”というルールを破ったのです。

海軍の輸送船に6週間揺られた後、1940年7月20日、私の21歳の誕生日の翌日、マニラに到着しました。私は、フィリピンのカビテにあるカビテ海軍工廠で、勤務に就くことになりました。その後18ヶ月間のフィリピンでの生活は、守備の仕事と休日の繰り返しでしたが、一等兵の36ドルという月給でも、ペソとドルの為替レートが2対1でしたから、よい暮らしだったのです。

日本軍の捕虜になる

真珠湾攻撃のニュースを聞いたのは、ちょうど私が黄疸で入院していたときでした。でも戦争が始まって、どういう訳か直ってしまったのです。私はカビテ海軍工廠の機銃部隊に配属されました。1941年12月10日、日本の爆撃機が海軍工廠を爆撃し、完全に破壊してしまいました。何 も防衛するものがなくなり、私たちはその後バターン半島に到着するまで、一つの持ち場から別の持ち場へと移動し続けました。

クリスマスはバターンで迎え、クリスマスの夕食が出ました。その後12月28日頃、私たちは、沿岸防衛のためにコレヒドール島に渡りました。私たちの中隊は、コレヒドールからさらに数マイル離れた島にあるヒューズ要塞に移動しました。その後の4ヶ月間、私たちは連日砲撃と爆撃に晒されたのです。私たちは、5月6日にウェインライト将軍が全フィリピン極東軍を降伏するまで、戦い続けました。降伏の日の思いは、とうてい言葉では説明できません。米国旗が降ろされ、白い旗が揚げられるのを見るのは、言葉で表せないほどつらいことでした。

日本兵は、私たちをヒューズ要塞からコレヒドールの92番修理工場に移動させ、さらに船でマニラのビリビッド刑務所に送りました。そして1942年5月26日、私たちは最終的にカバナツアン捕虜収容所に到着しました。そこで仕事をするわけでもなく、収容所内をうろつき回り、時折死んだ仲間を埋める作業に従事しました。

1942年10月5日、2,000人の捕虜が移動のために集合させられました。7日に私たちは「鳥取丸」に乗船し、2,000人の日本兵と一緒にマニラを出航しました。どこに連れて行かれるのか分かりませんでしたが、私の個人的意見としては、このことは私たちにとってよいことだったと思います。フィリピンに残るよりも、もう少し後になって輸送されるより も、よかったのです。戦争が終わりに近づく頃になると、多くの輸送船が米軍機の爆撃によって沈められたからです。

11月8日、ついに私たちは朝鮮の釜山に到着しました。思ったより立派な冬服を支給されました。それから普通の客車に乗り、一般乗客用の食事を給仕されたのです。なかなかのものでした。11月11日、私たちにとっては停戦記念日、満州の奉天に到着しました。

満州奉天捕虜収容所での暮らし

満州に到着したのは、どんよりと曇った暗い日の午後でした。駅を後にして、私たちは自分たちがこれから入る収容所に向かいました。それは、満州北大営の旧兵舎でした。木製の建物は、90センチほど地面に埋 めこめられ、厚い壁は保温のために粘土で補強されていました。手荷物をおろした後、私たちは整列させられ、木札にペンキで書かれた捕虜番号が各人に手渡されました。(私のは610番でした。)自分た ちで藁を詰めるようにと布製のマットレスと何枚かの毛布が支給されました。

それから食事でした。何やら種のようなものがはいった紫のスープが、お椀で出てきましたが、それはひどい味でした。そしてパンが一日3個でした。私たちの士気は、 一気に落ち込んでしまったものです。多くの者が病んでいました。その後の数ヶ月で、200人以上の捕虜が死んだのです。ある者は生きるチャンスを欲せず、諦めてしまったのかもしれません。生き延びる可能性のない者が、数多くいました。この時期、死んでいくこと はいとも簡単でした。生き残るためには、多くの努力が必要だったのです。

1943年1月中旬、工場で働く作業班が編成されました。最初は少人数でした。噂では、その仕事は悪くないということでした。数日後にさらに志願者が募られたとき、私も加わりました。私たちは、約5キロ離れた工場に向 けて行進しました。

毎日の平均気温は、摂氏マイナス42度にもなりました。私たちの冬服はまあまあでしたが、靴と手袋はよくなく、私たちの足と手は寒さの中で凍りつくようでした。でも工場に働きに行くと、食べ物が少し多く貰えたのです。それで私たちは、朝は工場へ向かい夜は工場から帰るというつらい往復を したのでした。生き残ることが、何よりの動機でした。少しでも多くの食べ物にありつけることは、生存のチャンスが増えることを意味していました。降伏はしていましたが、私たちは負けてはいませんでした。サボタージュはしょっちゅうのことでした。

冬が過ぎて、やっと1943年の春が訪れ、日中は暖かく穏やかになりました。凍っていた地面が墓穴を掘るのに充分なほど解けたので、(冬の間に)死んだ仲間を葬りました。この時期で最も重要 な出来事は、食事の主食が、あの得たいの知れないスープから大豆に変わったことでした。これは最高でした。ましな食事・穏やかな天候・そして厳しい冬を越してまだ生きているという事実は、私たちを勇気付 けました。ここまで生き延びたのです。士気は、飛躍的に向上し始めました。

1943年の初夏になると、士気を高揚させるもう一つの出来事が、一年以上の不在の後に私たちに戻ってきました。健全な男子の生理が戻ってきたのです。最初に経験した何人かは、 喜び勇んでそれを披露しましたが、間もなく「俺にも起こったよ」が、普通の返事になりました。このことは、私たちの士気をいっそう高めることになりました。自分達は再び生きている。置かれている状況を思えば、決して悪くないじゃないか。

でもおそらく一番辛かったことは、将来を予測できないことでした。私たちの何人かは、収容中にもそのことを語り合ったものです。もし犯罪を犯して捕まり、刑務所に入れられるにしろ、それは90日とか1年とか5年とか、最初からわかっています。それが過ぎたら、出られる のです。でも私たちには、自分たちがこの先どれだけ捕われの身でいるのか、知るすべがありませんでした。

ほとんどの場合、私はできるだけ楽天的でいようと努めました。そうしなければ、参ってしまうからです。それは間違いありませんでした。考え始めたら、気が変になっていたでしょう。

1943年7月、日本軍は 、この戦争は100年続くというので、新しい捕虜収容所と私たちが入る兵舎を建てました。2階建てのセメントブロック製でした。兵舎の一つの並びには、病院、風呂場、便所(日本式の屈むスタイル)がありました。そしてこの新しい兵舎は、工場から1キロも離れていなかったのです。私たちが寝るのは二段ベッドで、大部屋の両側にロシア式暖房ペチカが据えつけられました。ベンチつきのテーブルも2つありました。 それまでの収容所に比べたら、大変な進歩です。ここで私たちは、MKK(工作機械工場)作業員として、暮らしていくことになったのです。その他に3つの収容所分所も建設され、そこにも住み込みの作業班が送られていきました。
                              
                                    
                                                           
Photo courtesy of Mr. Hal Leith, OSS member who liberated
                                                                                Mukden camp:  From his book,
POWs of Japanese Rescued!

戦争で知る人間の姿

私は、「ブル」 と呼ばれた日本人看守に、一度ひどく殴られたことがありました。彼が言っていることがよく聞こえなくて、命令に従わなかったのです。彼は、鞘に入った刀で私を4度殴り倒しました。私はその度に起き上がったのですが、5度目には倒れたままでいました。それ以前にも、蹴られたり、平手打ちを受けたり、ライフルの背でこずかれたりして、嫌な思いをしたことはありました。でも今回はひどくて、負傷するほどでした。 私は今でもそのことを思い出します。

「ブル」は、本当に多くの捕虜を殴りました。それが彼の性格だったのか、日本軍の文化だったのか、私には分かりません。もし米軍もそのような方法で自国の兵士を訓練していたのなら、私たちも同じように振舞ったかもしれません。さらには、捕虜に関する日本の文化が、彼らをして、私たちを最低な連中と思わせていました。彼らから見た私たちは、何の価値も無い人間だったのです。これも、当時私たちが理解できなかった彼らの文化の一端でした。

Photo courtesy of Mr. Hal Leith
From his book,
POWs of Japanese Rescued!

でも戦争というのは、色々な意味で興味深いものです。予想もしないことが、起こったりするからです。私と4-5人の仲間は最後の2年間、小柄な日本人民間人の下で働いていました。この人物はクリスマス前の最後の作業日、自分のお金で買ったスコッチ・ウィスキーを、私たち のために持ってきました。それは日本製のにせもののスコッチでしたが、 それで充分でした。彼は、私たちのことを考えてくれていたのです。

1943年と44年は、そんな感じで淡々と過ぎて行きました。1944年の12月7日までは…。米空軍の一部隊は、どこかで真珠湾攻撃の記念日を思い知らせようと決心していました。その日の奉天は、視界が開けた唯一の都市だったのです。温度は氷点下40度近く、空は真っ青に澄みきっていました。そこに1マイルはあるかという長い飛行機雲を描きながら、B-29の一群がやってきたのです。この飛行機を初め て見た私たちは、すっかり見とれていました。でも私たちはついていませんでした。気まぐれな事故により、二つの爆弾が少しそれて、私たちの収容所に落ちてしまったのです。19人の捕虜が死に、数多くの負傷者を出しました。

その冬も過ぎ、再び春がやってきました。7月になると、小さな変化が現れ始めました。そのどれもが、よい兆候には見えませんでした。収容所 の全員が、何か落ち着かなかったのです。爆撃はさらに頻繁になりました。この時点では、これらの出来事の何も私たちを励ましてくれませんでした。夏の訪れは、これまで見たことも無いほど大量のノミの発生をもたらしました。

開放

1945年8月16日、私たちは米軍のB-24機が奉天の上空を低空飛行し、そこから幾つかの有色のパラシュートが舞い降りるのを目撃しました。その日の夜、風呂場の建物から、収容所長の事務所を覗くと、軍服を着た白人が、彼の机の上に座っているのが見えました。その晩は、誰も眠れませんでした。翌朝、捕虜の中でも最上級将校だったパーカー将軍が私たちを集合させ、戦争が終わったことを告げました。でも私たちは、ソ連侵略軍の到着を待たなければならなかったのです。彼らは8月20日にやってきて、私たちが自由の身であると宣言しました。3年3ヶ月の後の開放感は、天にも昇るような気持ちでした。でも私たちが実際に収容所を出たのは、1945年9月12日のことだったのです。

戦後の日本

戦後、私は日本での任務に配置されました。戦争はもう過去のことでしたし、自分で意識して抱いている日本への悪感情は、無かったと思います。起こったことは戦争中のことですし、悲惨なことが起こるのが戦争というものです。でも、日本への派遣という命令を受け取ったとき、私は、自分の感情と向き合わなければならないことを、知ったのです。船が日本に近づいたとき、日本に着いたら、そしてかつて自分に多くの苦しみを与えた日本人を見たら、自分はどう反応するだろうと、いろいろな思いと感情が湧き上がってきました。

それから、ワシントン州のワパトという町で受けた、私の最初の7年間の学校教育のことを思い出していました。生徒の約35%は日本人(日系人)で、その多くは私の友人だったのです。実際日本に着いてみると、悪い時代の思い出は消えて行き、私の旅行好きと新しい場所好 きが、自分が抱いていたかもしれない抵抗を打ち消してくれました。私が配属された連隊は、富士山の麓の富士基地でした。休日には東京や横浜へも足を伸ばし、地元の小さな町も訪れました。私はいつも日本式の宿屋に泊まるようにしていました。鎌倉の大仏も見に行きましたし、熱海の町も小さくて可愛らしいと思いました。結論的には、私は日本に駐屯中、日本人に対して何ら悪感情を抱くことはありませんでした。実際、1953年と54年の2年間の滞在を、私は最大限に楽しみました。

回想録を書く

私は今、捕虜体験に関する回想録を書くために、大学の作文のコースを取っています。それは、私の気持ちの片隅に長い年月あったことなのですが、これまで行動を起こさずに来たのです。私に残された時間はもうありません。86歳にもなれば、現実を知らなければなりません。でもたぶんもっと重要なことは、人々や現代の子供たちが、第二次大戦中の”私たち”の歴史を習っているとは、私が信じられないことです。幾つかの学校で講演し、多くの教師と話してみて実感したのは、この問題に関して彼らが悲しいまでに無知だということです。彼らの中のたった数人にでも語りかけることができたら、私は、自分が多くを達成したと感じると思うのです。

これまで元捕虜が書いた著書を、何冊か読んだことがあります。これらの本の中には、かなりの誇張と思われる内容もありました。日本軍の捕虜として生きた体験は、全ての捕虜にとって大変なトラウマだったと思います。事実だけでも、充分にそれを語っているのです。40%に近い捕虜が、最後まで生き延びることができませんでした。ちなみにドイツの捕虜収容所の死亡率は、わずか1%でした。私たちは、起こった通りの体験を語るべきなのです。辛いときのことも、微笑ましい出来事があったときのことも…。さまざまな苦労にも拘らず、ユーモラスな思い出もあったし、日本軍の戦争遂行を私たちのサボタージュで邪魔した思い出もあったのです。思いやりを示してくれた日本人も何人かいました。これらの全てが、物語の全体そして私が語りたい物語を、形成しているのです。つまり、起こった通りの生と死の物語です。


追記(徳留絹枝

ウィーバー氏がこのエッセイの中で、日本に関して批判的なことを全く書いていないことに気付いた私は、「捕虜虐待の問題がどのように扱われてきたかに関して、何かおっしゃりたいことがあれば、どうぞ書いて下さい。」 と伝えました。寄稿を依頼した私が日本人という理由で、遠慮して欲しくなかったのです。彼はそれに答えて以下のように書いてきました。

自分の人生を悪意や憎しみを抱きながら生きることは、自分自身を傷つけるだけです。私を殴った「ブル」のような連中を傷つける訳ではありません。ですから、そんな憎しみを自分の中に抱いているのは、無駄なことです。あれは戦争だったのだし、二つの正反対の文化のぶつかり合いでした。日本政府は、非常に曖昧な謝罪はしてきました。たしかに私は、「第二次大戦中の、あなた方捕虜の取り扱いについて、私たちは心からお詫びします」 と日本に言って欲しいと思いますよ。私たちの政府は、日本から補償を受ける私たちの権利を条約で奪ってしまいました。ですからもう一度言いますが、これらのことを恨んでみても仕方がないのです。

私は靴が無くて悲しいと思いました…足が無い人に出会うまでは」 私は、この言葉にいつも助けられながら、生きてきました。





最近のウィーバー氏

 

* ウィーバー氏は2010年10月16日、逝去しました。