ハロルド N.ウィルソン
イギリス生まれ (1893-1969)

- 米国民間人



おとうさん、こんなに痩せて・・・

ジョン・ウィルソン
技術将校、米第六軍

私の父ハロルド・ウィルソンはイギリスで生まれ、21歳のときにアメリカに移住しました。私の母ノーラはノルウェー系で、ウィスコンシンのアーギルで育ちました。私は1922年7月24日、イリノイ州で生まれました。父は、ミルウォーキーの会社の建設エンジニアでした。

父は1925年、2年間の仕事でフィリピンに送られました。マニラから45マイル北西にある精糖所で、蒸気式発電装置の取り付けとその稼動の訓練をすることになったのです。

その仕事が終わった後、父は関連会社に移り、フィリピンに残ることになりました。私の弟のリチャードとロバートは、マニラのフォート・サンチアゴ病院で生まれました。

私たち兄弟は全員、フィリピンの学校に通いました。私は1939年に高校を卒業し、米国に戻るために家を離れました。陸軍の輸送船「グラント」に乗ってサンフランシスコまで航海したのです。

私はウィスコンシン大学に入学しました。在学中は予備役将校訓練隊にずっと所属し、1943年に卒業した後は、陸軍に入隊しました。フィリピンで一緒に学校に通っていた友人の父親の多くは、軍人でした。ですから、軍人になることはごく自然なことに思えました。もちろん私たちが育った1930年代には、自分たちに戦争が起こるなどとは、考えたこともありませんでした。日本軍の中国侵略については、友人の“軍人っ子”の父親の何人かが上海に送られていましたから、私たちもよく知っていました。

小さい頃ボーイスカウトで一緒だった二人の少年のことを思い出します。彼らの父親は大尉だったのですが、戦争中には、マッカーサーの下で技術統合の将軍になりました。 

大学を卒業した私は、フォート・ベルボアにある将校養成校に入りました。幾つかの訓練課程を終え、あと半日で北アフリカ戦線に送られるというところで、代わりに私は、補充将校として南太平洋戦線に送られることになったのです。

ニューカレドニアのノーミアで1ヶ月の訓練を受け、そして障害物コースなどを建設するため、私たちの船はサンフランシスコから出港しました。そしてガダルカナルを経由してブーゲンビ ル島に向かいました。そこで私は、諜報将校として第1297技術連隊に加わりました。

もう戦いは終わっていましたが、日本軍はまだブーゲンビル島の大部分を占拠していました。彼らは補給物資が来ないので、占領地域で野菜を育てていました。私たちの部隊が北を目指す準備をする間、何事もなく静かでした。奇妙なことに、ときどき日本兵が私たちの食事配給ラインに並んでいたり、私たちが見ている映画を見ようとして、捕まったものです。 

私たちは、滑走路を含んだ小さな地域を占領していましたが、格好な港は押さえていませんでした。その地の原住民は、これまで見たこともないほど原始的な暮らしをしていました。母親は、自分の赤ん坊と子豚のどちらにも乳を飲ませていたのです!

次の任務は、フィリピン上陸に備えることでした。私たちの連隊から、技術備品を保持する目的で、第1491中隊が組織されることになりました。私は機械エンジニアの学位を持っていましたので、それに参加するのがよいと思いました。

1945年初め、私たちはLST(上陸船タンク)に乗り、ルソン島のリンガエン湾に向かう船団に加わりました。攻撃に備えて、甲板には0.50インチ口径のマシンガンを搭載しました。ルソン島に向かうとき、実際に「神風」が私たちのそばに飛んできました。ところがどうしたことか、私のマシンガンが故障して発砲しないのです!パイロットはもっと大きな船をめがけて体当たりしましたが命中せず、海に墜落していきました。 

私たちがリンガエン湾に上陸したのは、上陸戦の翌日でした。日本軍はすでにその地域から後退していてよかったのですが、それでも私たちはその夜、たこつぼ壕の中で過ごしました。

私たちは、市場だったという大きな空っぽのビルに修理工場を設営し、さっそく仕事にとりかかりました。

一週間後に私は、高校のクラスメートでマニラのボーイスカウトでも友達だったアブナー・ピッカリング中尉に会いました。彼はマッカーサーの第六軍司令部付属の通信中隊隊長を知っていました。それらのつながりを通じて、かつてフィリッピンに住んだことのある10人の独立グループが編成されました。臨時の任務には明確な終了時期がなく、私たちの唯一の仕事は、日本軍に収容されている家族を探し、助けることでした。私たちのグループには、大佐が1人と上等兵が1人いました。

陸軍の2個師団が、南に向けて急いで移動していました。騎兵第一連隊は東側の海岸線沿いに、そして私たちは、2台のトラックに食料を満載してヴィスコンシン第37師団に従いました。騎兵第一連隊の中のひとつの中隊が、さらに東で川を超え、サント・トマス収容所の門まで近づいていました。

日本陸軍の将軍は、戦争が始まったときと同様、マニラを非武装都市と宣言しようとしたのですが、日本海軍の提督がそれに反対し、この美しい都市の破壊を命じたのです。もう非武装都市ではありませんでした。市の北側半分はパシグ川に面して広がっていました。川の南側での戦火は、それからさらに1ヶ月続いたのです。それは奇妙な状況でした。私たちはときおり川の向こう側にいる日本の海軍から砲火攻撃を受けることがありましたが、でも市の北側は比較的平穏だったのです。

私たちは1945年2月4日、トレイラーを引っ張ってサント・トマス収容所に進入していきました。騎兵第一連隊は前夜にもう到着していました。100人以上の日本兵幹部が、教育ビル(サント・トマスは戦前は大学キャンパス でした)に収監されていましたが、その後すぐ釈放されました。

サント・トマス収容所の入り口のすぐそばには、焼けた大きな日本軍トラックがあり、死体がぶら下がっていました。

数日後、マッカーサー将軍がサント・トマス収容所にやってきました。彼は多くの友人たちと再会しました。彼が去って2時間後に、その同じ場所に日本軍の迫撃砲が落下し始めたのです。数人が死亡し、負傷しました。マッカーサーが既に去っていて不幸中の幸いでした。彼がいる間だったら、彼がいた辺りのメイン・ビルディングの前は人々でごったがえしていたからです。

たくさんの古い友人、先生たち、そして私の両親の友人たちに会えて、それは素晴らしい体験でした。車を持っていた私は、友人たちをあちこち連れて行くことができました。一人の友人とその母親を、彼らが以前住んでいたマニラ市内の家に連れていってやりました。庭に埋めておいたという品物を掘り起こし、屋根裏部屋に隠しておいた品々も取り降ろしました。川の向こう側では、日本軍がまだ建物を燃やし、銃を撃っていました。

陸軍は、病状の深刻な人々のために、近くに臨時の病院施設を設置しました。何人かは本当に危険な状態でした。友人の父親もそこにいたのですが、私が見舞ったのは、彼が栄養失調で亡くなる直前のことでした。彼は、自分の妻が自由の身になるのを見届けるまで生きたかったのだそうです。そして彼は、それまで生きたのです!

もう一人の友人も、サント・トマス収容所にいました。彼は以前、「LIFE」誌の写真家カール・マイダンスと働いていました。マイダンスもサント・トマス収容所に一旦は収容されたのですが、その後戦争の途中で、スェーデンの交換船「Gripsholm」でアメリカに帰還していたのです。そして彼は、マッカーサーと一緒に戻ってきました。

私は自分が使える車を持っていましたので、カールを乗せてあちこちに出かけていきました。カバナツアンにあった捕虜収容所はもう解放されていましたが、マニラから南に約40マイルのロス・バノスにある民間人収容所は、まだ日本軍の手中にありました。カールは、アメリカ軍がどのようにしてこれらの民間人を救出しょうとしているのか知っていました。それは極秘でした。彼は、作戦の概要だけ教えてくれましたが、私はそれを口外しないと約束したので、誰にも言いませんでした。私は、救出作戦がどう行われるのかを知ったのですが、いつ行われるのかは、知らなかったのです。

少し時間があったので、私は前に所属していた技術連隊を訪ねました。すると彼らの諜報担当将校がたちまち私を捉まえて、マニラ以南の道路について質問攻めにしました。

私たちは戦争前、車は運転していませんでした。でもボーイスカウトのサイクリング・バッジをもらうために自転車でその道を通ったことがあったので、私は橋について説明することができました。川の幅はそれほど広くないし問題はありませんでした。少しすると彼はまた私を呼んで「君の父親は、ロス・バノスに収容されているのか」と言いました。私は「はい」と答えました。すると彼は「私が君だったら、明日は早く出発するね。」と言いました。この部隊の他の誰も、彼らが今夜移動することを知らなかったのです。彼らの任務は、道路を守り、乗り物が通過するのを見届けることでした。

私の親しい友人アブナー・ピッカリングの父親も、ロス・バノス収容所にいました。明日の朝出発することを彼に教え、一緒に乗っていきたいか、と尋ねました。「何も起こらないよ。」と彼は答えました。それで彼は一緒に来ませんでした。私は、作戦機密を守ることを宣誓していたので、彼の父親が翌日救出されることを、言わなかったのです。

パラシュート降下は翌朝2月23日の午前7時でした。その頃、私たちは南に向かって運転していました。道路には、米兵もそして他の誰もいなくて、奇妙な雰囲気でした。とにかく南に向かい、フィリピン人を見かけたので「アメリカ兵はこっちか」と聞くとそうだと言うので、私たちは運転を続けました。そしてママティッド・ビーチのところまで来ると、ロス・バノス収容所から開放されたばかりの2,147人の民間人が、水上輸送船から降ろされているところでした。

どういう訳か、私は父を見つけられませんでした。2.5トン6輪トラックが、抑留者たちを乗せて、マンテンルパの新しいビリビッド刑務所(避難所)に向かって行きました。ついに私は最後まで父を見つけることができず、北に戻ることにしました。そこにも父はいませんでした。探しても探しても見つからず、もう私はパニックに陥っていました。

そこに別の6輪車がきて、そこに父がいたのです。とても弱っていましたが、トラックの横から私を目がけて飛び降りてきました。たぶん、私たちの生涯で最高の瞬間だったと思います。(父はあとで、その時泣いたと言っていました。)

父はとても衰弱していて、皮と骨だけの体重は50キロでしたが、しっかりしていました。あまり痩せていたので「お父さん、何がお父さんんを支えているのかわからないよ。」と言ったものです。私たちは一緒に簡易ベッドをしつらえ、父や他の人々が体力を回復するまで、一週間あまりそこにいました。救出作戦はよく準備されていて、食料や衣料品などもそろっていたのです。

翌朝、アブナーも新ビリビッド刑務所に来て、彼の父親を見つけました。その後私は、父がアメリカに帰還するのを待つ間、彼と一緒にマンテンルパに数週間滞在しました。私の部隊は、カランバ製糖所に修理工場を設置し、父は私とそこに移りました。戦前、私たちはそこを訪問したことがあり、父はそこの従業員クラブのメンバーでした。私たちはそこでまた数週間、同じテントで過ごしました。それから父をマンテンルパに送り届け、そこから彼はアメリカに帰国しました。
                                                                                   開放後の父

私は以前の修理班で任務を続け、その後建設中隊に移りました。この部隊は、日本上陸戦で予想される負傷者のため、リンガエン湾のそばに病院を建設していたのです。原爆の投下が終戦をもたらし、多くの日本人とアメリカ人の生命を救いました。


ジョン・ウィルソン:父親の開放数日後

私は1946年の春、ベルボア基地で1943年に結婚していた妻の待つ家に、やっと帰ることができました。

 

テキサス州フレデリックスバーグ、太平洋戦争博物館所蔵 
ジョン・ウィルソン氏オーラル・ヒストリーより抜粋
 




戦後のハロルド・ウィルソン氏