善通寺捕虜収容所 

小林晧志

私は20071117(土)、初めて香川県にあった善通寺捕虜収容所跡に行ってきました。予想していた通り、収容所跡には中学校が建っており、収容所としての面影はありません。訪問する前に電話で、該当する善通寺市の西中学校へ電話し、収容所に関して何か関係する遺跡、参考資料のようなものは残っていませんか?と尋ねたところ、そういうことは教育委員会へ聞いて下さいと言われた。次に教育委員会へ電話したところ、自衛隊の乃木資料館に資料があるので、そちらを訪問するようにすすめられた。下記に訪問した場所を順を追って記しておきます。

乃木資料館
善通寺駐屯地は、明治31( 1898) に旧陸軍第11師団として創設され、日露戦争(19041905)で有名な乃木希典将軍が初代師団長であった。この資料館の玄関を入った直ぐ右側に捕虜収容所の概略図、元捕虜(1)が訪問した新聞記事米国オレゴン州の医師David D. Kliewer 当時72才)夫妻、19891010日訪問}が掲載されてあった。建物の一階は自衛隊の音楽隊が使用、二階に乃木将軍の写真、遺品が展示されてあり、自衛官の案内で見学した。この資料館には日曜、祭日なしに誰でも入館出来るとのこと。


善通寺で亡くなった捕虜の共同墓石

墓石には日本語で10名の名前が刻印してあった。墓石は地元の横川敏雄(死亡)さんによって昭和27(1952) 9月に建てられたもので、後日、横川さん宅を訪問し家族の方に建立の経緯を尋ねたが分らないとのこと。墓地は現在、市役所が管理し、ボランティアの方が墓地の清掃などをしている。今回、墓に参った時、花と線香が供えてあった。


収容所跡地の学校と樹木

収容所のあった西中学校の外周を歩いた。敷地の周りには木
(カイズカ)が植えてあり、そのまま60年前の木もあるかもしれない。


     



収容所で
働いていた女性

多田昌子
(81)さんは女学校を卒業後、17才で直ぐに収容所に事務員として当初から勤務。2年間働いたが、途中で本部が広島に移転したため退職。当時は直接、捕虜たちとの接触はない。体は健康ですが、少し難聴がある。David D. Kliewer さんが来た時、対応した。

(写真:多田昌子さん)




捕虜10名の供養を続ける日本人

2次世界大戦中、日本で望郷の念にかられながら、ひどい病気で多くの捕虜が亡くなった。善通寺捕虜収容所も同じだった。善通寺では、アメリカ人7名、イギリス人2名、オーストラリア人1名の10名が戦争中亡くなった。

大北文男
(82)さんは、父の米一(195456日死亡、61)さんの跡を継ぎ、自分の仏壇の前で亡き10名の霊を供養し続けている。大北さんは10名の名前を日本語(カタカナ)で書いた紙を繰り出し位牌に収め、祭壇に祭っている。紙には父親が手書きした捕虜の名前、生年月日、死亡日が載っている。

戦争中、大北さんの父は
善通寺市役所の衛生課職員として勤務し、捕虜が病死するのを見てきた。当時、収容所には600人もの捕虜がいた。彼らの気持ちや国に残してきた家族のことを思って、亡くなった霊の供養を自分の家で始めた。

一方、大北さんは194419才で丸亀歩兵連隊に入隊し、1946年に中国から帰国した。終戦後、彼の部隊は中国の済南(チーナン)から青島(チンタオ)まで1ヶ月近くかけて行進、生死をさまよいながらたどり着いた。その間、多くの戦友が国に残した妻子や父母をしのびながら病死するのを目の当たりにした。復員後、自宅に帰り父親が亡くなった捕虜を供養しているのを見かけ、涙がでるほど感激した。大北さんは父親の死後、あとを継ぎ今日まで捕虜の弔いを続けている。大北さんは四国電力()坂出火力発電所で定年まで38年間働いた。

大北さんは、父の代から、善通寺収容所で亡くなった捕虜
10人の名前を書いた紙(ボールペンでカタカナで書いてあった)を繰り出し位牌に収め、自分の家の仏壇の前で読経を唱えて、供養をされてきた。この捕虜の名前は先に述べた墓石にある名前と同じで、我々のPOW研究会のホームページに載っている名前と一致している。大北さんは父親の跡を継ぎ、現在は自分の父の命日(昭和29(1954)56日死亡)の毎月6日に読経を上げているとのこと。家は浄土真宗。尚、英文名の名前は持っていないそうです。
 

「人間、国を思い、家族を思う気持ちは日本人も外国人も同じ。彼らのために出来るだけ長く供養を続けてあげたい」と大北さんは語る。                                大北氏(自宅の仏壇の前で)

大北氏は、現在、肺気腫をわずらっておられ、こういった供養は後何年続けられるか分らないと言われた。

 
    
捕虜たちが毎日眺めたであろう我拝師山 (がはいしさん)

備考:今回、訪問するにあたり、三豊市(善通寺市の隣り)の市役所勤務の森広幸さんに案内してもらい、多大なご協力をいただいた。
                                                       (右:森 広幸氏)

 

*小林晧志氏は広島県福山市在住で、POW研究会の会員

 


善通寺元捕虜の娘から

キャロライン・バークハート

私の父、トーマス・F.バークハート中尉(フィリピン・スカウト第45歩兵隊)は、バターンで捕われ、1942年11月に地獄船で日本に輸送されました。彼が最初に入れられた収容所は多奈川で、父は栄養失調のためそこで次第に視力を失っていきました。この収容所は悪夢のような所で、多くの捕虜が、熱帯地方で感染した病気や一年にわたる飢えの結果、死んでいったのです。1943年1月に将校は善通寺に移送され、戦争初期にグアムやウエーク島で捕えられた後でそこに数ヶ月収容されていた捕虜たちの様子を見たとき、運が回ってきたことを知りました。

善通寺は「プロパガンダ(モデル)収容所」ということになっていましたが、それでも、収容生活は厳しく、どんな些細なルール違反でも、当番の見張りから処罰を受けました。捕虜たちは見張りの本当の名前を知りませんでしたので、あだ名を付けていました。メリーランド州カレッジパークの国立公文書館の戦犯記録(RG389)には、Saki Pete, Leatherwrist, Buttons, Club Fist などのあだ名が頻繁に出てきます。1944年12月に収容所長になった近藤玉衛は横浜の戦犯裁判で、善通寺の捕虜を残酷に扱った罪で起訴され重労働5年の刑を受けています。

善通寺での食料事情がよくなったため、父トム・バークハートの視力は回復し、彼は日記をつけることができるようになりました。毎日の記述は、ほとんどがその日どんなものを食べたかに関する内容でしたが、それは食べることが生存のために欠かせなかったからです。赤十字からの救援食料箱が、生存と死を分けることもたびたびありました。父の日記には、英軍のレスリー・スレーター少佐が1944年の7月に、米海兵隊のW.H.ソービー軍曹が1944年11月に死んだこと、そして米陸軍のB.A.バーレット少佐と英空軍のドナルド・モールデン氏が死亡したことも書かれています。

善通寺捕虜収容所での捕虜たち(左から二人目が父)


捕虜の体験をリサーチしている私たちアメリカ人は、日本政府が、公式謝罪をすることを拒み、多くの場合、日本国内やアジア各地での連合軍捕虜虐待を認めることさえ拒んでいると、よく聞きます。私たちは、政府の政策が往々にして国民ひとりひとりの意思を代表しているのではないことも、知っています。私は、小林氏の善通寺訪問の報告を読み、善通寺で64年前に亡くなった捕虜たちの思い出が、今でも何人かの日本人によって追悼されていることに、大変心を打たれました。そのようなことが行われているとは、全く思いもしませんでした。遠い昔に死んだ捕虜を誰に頼まれることなく追悼していたご尊父の仕事を引き継がれた大北文男氏の存在は、私たちアメリカ人に、親切で立派な人々が日本に多くいることを改めて教えてくれました。私たちは、どの国にもこのような心優しい行動をとる人々がいることを、いつも忘れてはならないと思います。善通寺にいた捕虜たちと彼らの家族は、彼らがそこで失った仲間がこのように追悼されていることを知り、心から嬉しく思うことでしょう。


*善通寺捕虜収容所に関する詳細 (Center for Research Allied POWS Under the Japaneseから)
 http://www.mansell.com/pow_resources/camplists/osaka/Zentsuji/zentsuji.htm

 


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