ローゼン大佐の思い出  

徳留絹枝

2007年10月18日、私はアーリントン国立墓地で執り行われたメルビン H. ローゼン退役大佐の埋葬式に参列しました。美しい秋の日の澄み切った青空の下で、式は、軍人の名誉の埋葬のしきたりに沿ったものでした。星条旗に覆われた棺は、7頭の白馬に引かれた台車で墓地まで運ばれました。家族の他に百人近い友人が、ユダヤ教ラビが司る式に参列しました。ユダヤ教の追悼の祈りが復唱されました。7人の射撃手による3発の射撃があり、そして永別のラッパが吹奏されました。最後にオリーブ夫人が、たたまれた星条旗を受け取りました。
 


                                                                               photo courtesy of Mr. Donald Plata


ローゼン大佐は1940年ウエストポイントの陸軍士官学校を卒業し、1941年1月志願してフィリピンに赴任しました。1942年4月9日、バターン半島の米・フィリピン軍が日本軍に降伏したとき、ローゼン大佐は日本軍の捕虜となりました。彼は、バターン死の行進、何千人もの捕虜が非人道的取り扱い、処刑、飢餓、疫病で死んだ捕虜収容所に生き残りました。その後
「鴨緑丸」「江の浦丸」「ブラジル丸」の3隻の地獄船で輸送され、1945年9月、朝鮮半島の仁川の捕虜収容所で開放されました。

そのような体験にも拘らず、ローゼン大佐は日本人の私を友人として受け入れてくれました。最後のお別れを言いながら、私はローゼン大佐との多くの思い出を振り返っていました。

私にとってローゼン大佐は筋金入りの軍人でした。背筋はいつも真っ直ぐ伸び、言葉遣いはいつも明瞭で適切でした。彼がたった一度声をつまらせたのは、バターン死の行進中に仲間の捕虜が日本兵によって銃剣で刺し殺されたのを目撃した体験を、語ってくれた時でした。

私は、できるだけ多くの人々、特に日本の人々にローゼン大佐の捕虜体験を伝えようと、心に決めました。それを実行するにあたってはフラストレーションも多かったのですが、それ以上に、ローゼン大佐のような立派な人格の人物と行動できたことは、とても実りある体験でした。私は、ローゼン大佐の友人としてふさわしくありたいと思ったのです。

2003年、ジョージ・ワシントン大学で開かれた会議で、私は捕虜の問題について発表しました。会議のテーマは「記憶と和解」で、一般に公開された会議でした。最前列に座っローゼン大佐とオリーブ夫人を見た時、学生も多い聴衆に向かって彼の捕虜体験を紹介できることに、私は深い誇りを感じたものです。私は発表の中で、ローゼン大佐の捕虜輸送地獄船の思い出に触れました。

私たちは3隻めの船「ブラジル丸」に乗船させられ、1月14日に高雄を出航しました。「ブラジル丸」上で死ぬ捕虜の数は毎日20人から40人へと増えていきました。南国のフィリピンから出発した私たちは、今や床窓から雪が舞い込む東シナ海を航海していました。捕虜たちは凍りつき、飢え、乾き、そして無数の病気で死んでいったのです。その時点まで私は何とかウェストポイントの卒業記念指輪を隠し持ってきましたが、水筒半分の油っぽい水と交換に日本人監視に取られてしまいました。今回も用便施設はなく、船倉は糞尿や吐しゃ物がかかとの高さまで溜まっていました。

1945年1月28日、「鴨緑丸」でマニラを出た1619人のうち400人ほどが、何とか生きて門司にたどり着きました。日本兵が船から生存者を下ろし、何人かの体重を計りました。私の体重は40キロ(88ポンド)きっかりでした。通常なら155ポンドが私の体重だったはずなのですが

数日後、日本の保守的なある新聞が、この会議を反日セミナーと非難する記事を掲載しました。私は、そのことをローゼン大佐に伝えませんでしたが、別の日本の新聞に意見記事を書き、その中で次のように訴えました。

このような声に耳を傾け、日本が何をなすべきかを考えることは、決して「反日」活動ではない。かつて奴隷のように扱った人々に心からの誠意を示し、彼らの人生の最後に正義と名誉を回復することで日本が得られるものもまた、計り知れないからだ。

2005年、著名な日本の雑誌が、バターン死の行進の残虐性を軽視しそれを疑問視さえするような記事を、掲載しました。その記事の英訳を読んだローゼン大佐は、次のように私に書いてきたのです。

記事を読んで血が煮え返りそうでした。食糧や水を分けてくれるどころか、日本人監視が私たちに与えたものは、殴打・銃剣による刺殺・銃殺・斬首だけでした。私はこれらのことを、嘘発見器にかけてもらって喜んで証言しますよ。

バターン死の行進から63年も経つのに、その生還者が自分の体験を証明するために、嘘発見器を使ってもよい、とまで言わなければならないことに、深い悲しみを覚えずにはいられませんでした。私は、この記事に抗議する記者会見を開く手伝いをしました。最終的にこの雑誌は、やはりバターン死の行進生還者であるレスター・テニー博士の長文の抗議文を掲載しました。

私にとって最も誇らしい思い出は、ローゼン大佐の依頼により、フィリピン・スカウトの2006年度総会で基調演説をしたことでした。彼は太平洋戦争勃発時、フィリピン・スカウトの若き将校で、フィリピンの防衛のために彼らと共に戦ったのです。私は、彼がフィリピン・スカウトをこよなく愛し、その伝統を深く誇りとしていることを、知っていました。そのような人々の前で、私の思いを共有できる機会を与えられたことは、言葉では表せないほど名誉なことでした。

Speech for the Philippine Scout Heritage Society

ローゼン大佐は、日本政府を相手取って1兆ドルの補償を求めた集団訴訟の原告でした。その金額を決めたのは誰なのか私には分かりませんが、私の知る限り、ローゼン大佐が求めたものは正義でした。彼は、当時の国際法に違反して捕虜を虐待したことに関し、日本政府が謝罪をすることを望んでいたのです。

彼は、なぜ口ひげを生やすことになったのか、教えてくれたことがありました。戦争が始まる前、10人の若い将校仲間でマニラのバーに集まることがよくあったそうです。ある晩一人が「皆で口ひげを生やさないか?」と提案し、まもなく10人全員が口ひげを生やすようになりました。戦争が終わった時、10人の中で生き残ったのはローゼン大佐唯一人だったそうです。

戦後の年月を、彼は威厳をもって生きました。彼は、生き残った自分の人生を祖国とそれを守るために死んでいった仲間の思い出に、捧げたのです。彼はまた、自分が乗せられた地獄船で命を落とした捕虜の子供たちと、特別な友情を育んでいました。故デユエイン・ハイジンガー退役海軍大佐は、その一人でした。私にとって忘れられない思い出は、ローゼン大佐夫妻とハイジンガー大佐と、ローゼン大佐のお気に入りのレストランで夕食を共にしたことです。彼らは、私が出会った人々の中で最も誠実で温かい人物でした。 

ローゼン大佐の輝かしい軍歴には、かつてその地で解放された韓国に、後年14,500人の米兵を率いる指揮官として赴任したことも、含まれていました。

彼は美しい夫人と、素晴らしい子供・孫に恵まれました。私は、ローゼン大佐がオリーブ夫人と駆け落ちした時の話をしてくれる度に、私が知り得たローゼン大佐からは想像もつかないエピソードに、興味津々で聞いたものです。ローゼン夫妻の物語は、真のラブストーリーでした。オリーブ夫人は私に、新婚の頃のローゼン大佐が年若い新婦に自分の悲惨な捕虜体験を知らせないようにしていたことを、教えてくれたことがありました。しかし、結局2人は全てを共有することになったのです。



88歳の誕生日をオリーブ夫人と祝うローゼン大佐

私は、ローゼン大佐が捕虜として収容された多くの場所を訪問しました。バターン半島、オドネル捕虜収容所、カバナツアン捕虜収容所、ビリビッド刑務所、そして「鴨緑丸」が友軍からの攻撃で沈み、彼が海岸まで泳いだスービック湾などです。故ハイジンガー大佐の尽力により今スービック湾には、日本の捕虜輸送地獄船内で死んだ捕虜と苦しんだ捕虜を記憶する美しい追悼碑が、建っています。

 

地獄船追悼碑 碑文

 

私は、ローゼン大佐の死を嘆かないよう努めています。彼がいつも言っていたように、彼は幸福で充実した人生を生きたのです。そしてその生涯で、多くの人々に影響を与えました。私もその一人でしたが、彼の体験を通して日本軍捕虜米兵の歴史を学ぶ貴重な機会を与えてもらったことに、これからもずっと感謝していきたいと思います。

ローゼン大佐、有難うございました。安らかにお眠りください。
 


 


                                                                  photo courtesy of Mr. Donald Plata
 

ローゼン大佐の捕虜体験の詳細