海兵隊員への別れの辞
 

彼は典型的な海兵隊員ではありませんでした。 戦前の上海の海兵隊軍楽隊員、コレヒドール要塞防衛兵、日本軍捕虜、朝鮮戦争従軍兵、そして日本人と交流した最後の10年間という彼の生涯を稀有なものとしたのは、肉体的強靭さではなかったのです。彼が、その人生を通し・・・日本の炭鉱で強制労働を課せられた最も辛い月日でさえも・・・決して失わなかったものは、神と人間性への信頼でした。

彼はニブラスカ州の農場で育ちました。両親は、彼によれば貧農でしたが、溢れるような愛情と深いキリスト教的価値感と共に彼を育てました。
 

                                           
             小学生時代               高校卒業時

両親は大変な経済的犠牲を払って、彼を大学に入れました。しかし、一年が過ぎた時点でそれ以上勉学を続ける余裕はなくなりました。高校時代に学生バンドに所属していた彼は199年、合衆国海兵隊軍楽隊の一員になれることを期待して、海兵隊に志願します。

サンディエゴでの厳しい基礎訓練に生き残った彼は、後にLast China Bandとして知られる海兵隊第四部隊軍楽隊員として、中国の上海に送られました。上海で過ごした19ヶ月は、ニブラスカの農場出身の若い海兵隊員にとって、夢のような月日でした。戦争の足音は迫っていましたが、アメリカ合衆国はまだ中国でのプレゼンスを維持し、海兵隊はその権益を守る役目を果たしていたのです。
 

                       

ドキュメンタリー  Last China Band

 



上海を去る海兵隊第四部隊

19411128日、ついに海兵隊第四部隊は上海を去ることになりました。皮肉なことに、来たるべき戦火を避けようと彼らが避難したフィリピンは、真珠湾攻撃から数時間後に日本軍からの攻撃を受けたのです。

コレヒドール島の要塞を5ヶ月にわたって死守した後、米・フィリピン軍は194256日、日本軍に降伏しました。音楽と写真が趣味だったもの静かな海兵隊員の彼も、その後40ヶ月にわたり苛酷な扱いを受ける二万七千人の米捕虜の一人となったのです。そのうち40%は、生きて祖国に帰ることはありませんでした。

彼はフィリピンのクラーク飛行場で働かせられた後、地獄船で日本に送られ、終戦まで日本の炭鉱で強制労働に就かされました。

彼の捕虜体験

日本でもう一冬を生き延びることはできなかったろうと認めつつも、彼は、捕虜として最も苦しかった日々について進んで話すことはありませんでした。1945年の冬に書き始めた回想録の最初の原稿で、彼は次のように説明しています。

私たちが体験したことを聞かされたって、いったい誰がそれを信じられるだろう。 語ったところで、ほとんど助けにならない。だから私はいつも、捕虜体験を語ることを避けてきた。しかし、記憶は頻繁に悪夢として現われ、時には良心の瞑想の中で醜い考えを起させることもあった。

しかし彼は結局、Mikado no Kyaku (帝の客)、The Last China Band という 二冊の美しい回想録を仕上げました。

彼は生還できたことにいつも感謝していました。しかし、自分の生還後わずか3年で母が死んだのは、末っ子の息子が捕われの身で居る間に彼女が味わったであろう心労が原因だったのではないかと、感じずにはいられませんでした。



 



帰還後 両親と(1945)

母の手紙

彼にとって赦すことは、難しいことではありませんでした。彼が決して忘れずいつも心にかけていたのは、海兵隊仲間(生還できなかった者もできた者も含めて)のことでした。彼は自分の回想録の中で、フィリピンの捕虜収容所で埋葬作業班に入れられ、赤痢で死んだ第四海兵隊の副軍楽隊長を埋葬した時の思い出を、心を込めて書いています。

かつては誇り高く才能に溢れた人物がこのように死んでいくのを見ることは、悲しいことでした。数ヶ月前の上海で、彼は軍隊行進曲を作曲し、第四隊指揮官デユーイット・ペック大佐に捧げて、表彰を受けていたのです。コニスキー二等軍曹が浅い墓に埋められ、草と私たちが近くから摘んできたわずかばかりの野辺の花で覆われて横たわっている姿は、何と哀れな光景だったでしょう。なぜかわかりませんが、何十年経った今でも、その光景は私の脳裏にくっきりと焼きついて離れません。

彼は80 90代になっても、パラワン島で虐殺された海兵隊員であれ、生涯の友となった軍楽隊員であれ、亡くなった仲間を追悼するためにどんな遠いところへも出かけていきました。

さらに彼は、それが日本兵であっても自分と同様の体験をした者の苦しみに、共感を覚えることができました。シベリア抑留者の運命を知ったとき、彼は書きました。

これらの兵士がどんな目に遭ったかを知り、当時日本兵は私たちの敵であったにも拘らず、私は、心が痛むほどの同情を感じずにはいられません。どんなにか辛かったろうに・・・。国籍がどこであろうと、捕虜の辛さは捕虜が一番わかるのです。

海兵隊関連の行事に参加することは彼にとって何よりの喜びで、海兵隊第四部隊の戦友会には必ず参加してきました。
 



生涯の軍楽隊友人、ルー・カーティス氏と

 


彼の晩年のハイライトは2010年、戦時中に強制労働を課された福岡県二瀬の炭鉱跡地を訪ねたことでした。外務省が主催した「日本POW友好プログラム」 により、彼を含む6人の元米捕虜が日本に招待されたのです。

元捕虜一行は東京で、ジョン・ルース米国大使と岡田克也外務大臣と面談しました。岡田外務大臣は日本政府を代表して、捕虜が受けた非人道的扱いに謝罪しました。

(岡田外務大臣と)

 

66年前に地獄船と古い列車で連れてこられた二瀬に、今回彼は、飛行機と運転手付きのリムジンで帰ってきました。かつて「鳥も鳴かず、花も匂わない地」 と彼が表現した場所を見るため、彼の娘も同行していました。捕虜であった間、彼はいつも、天の偉大な力が彼を見守り、歩みを導いてくれると信じていました。全く悪感情を抱くことなく二瀬に帰ってこられたこと、町の人々と当時の思い出を語り合うことさえできたことは、彼の信心の勝利ともいえるものでした。



保存された二瀬炭鉱正門の前で娘のジュディと

彼は二人の娘、孫、ひ孫に限りない愛情を注いでいました。しかし独立を貫き(愛妻は1999年に逝去)最後まで尊厳を保って一人で暮らしました。退役軍人病院での僅か1週間の入院の後、93歳の誕生日を2日後に控えた2014621日、彼は愛する家族に囲まれて人生を閉じました。

彼は今、先に逝った多くの海兵隊員仲間と日本軍捕虜仲間と再び一緒になりました。彼らの体験を、私たちは忘れずに記憶していきたいと思います。

米国海兵隊退役曹長 ドナルド L. ヴァーソー、あなたは本当に美しく生きました。

Semper Fi