手紙

ごくたまに、捕虜が家族に手紙を書くことを許されることがありました。それらの便りの一部は、何ヶ月も過ぎてから、時には1年もかかって、家族のもとに届きました。海兵隊伍長だったドナルド(ドン)・ヴァーソーは1944年5月6日、日本帝国陸軍から提供された葉書を使い、フィリピンの捕虜収容所から以下のような手紙を書きました。最後の文章は検閲で消されていますが、ドンはそこに何を書いたのか覚えていないそうです。

 

 



捕虜になる前、上海でのドン

この葉書は8ヵ月後の1945年1月28日、ニブラスカ州のドンの両親に届きました。ドンの母親はその日のうちに、戦争省から提供されたフォームを使って、以下のような返事を書きました。(この頃までには、ドンが日本に送られたことを両親は知らされていたようです。)

 

 

この手紙はドンには届きませんでした。実際彼は、母親が毎週のように書き送っていた手紙を一通も受け取ったことがなかったのです。

            
                                       

ついに待ちわびた日本降伏のニュースが届きました。ドンの母親は、1945年8月16日、以下の手紙を書きました。

 

ヴァーソー夫人が生還した息子との生活を楽しむことができたのは、戦後わずかの年月でした。彼女は1948年に亡くなりました。ドンは、4年近くも息子の安否を気遣ったことが、彼女の寿命を縮めたのではないかと思っています。


この手紙は、陸軍一等兵ロバート(ボブ)・ブラウンの母親が、彼の19歳の誕生日に書いて送ったものです。 

   

それは、当時奉天の捕虜収容所にいたボブの手に届くことはありませんでした。

   
奉天捕虜収容所で、捕虜番号190番を付けたボブ

1944年2月10日、ボブの母親は次のような電報を戦争省から受け取りました。  

 

戦時中の日本のプロパガンダ放送によって、息子が日本軍の捕虜になっていたことを知った親は多かったのです

1945年4月、ボブは盲腸の手術を受けました。ボブがその下で働いていた大気寿郎軍医は、ボブがアメリカの家族に10語の電報を送ることを、許可しました。ボブは1945年5月31日、その電報が届いたという家族からの返信を受け取ったのです。それは彼が3年半で初めて読む家族からの音信でした。

 

戦争が終わった後ボブは、母親が彼に送っていた何通もの手紙が収容所の日本人監視員の事務所に届いていたことを発見しました。彼は60年以上経った今でも、捕虜時代に読むことが許されなかったそれらの手紙を大事に持っています。その中の一通で、母親は書いています。

     私の愛しいボビー

     可愛いあなたのことをいつも思っています。そして何とかしてあなたを助けて
   
  あげたいと願っています。私の胸のうちと思いはあなたのことでいっぱいです。
   
  勇気をもってがんばってね。この戦争が終わって私たちが 皆また一緒になれ
   
  る日がくるように。
                            溢れるような愛とキスを私の坊やに。
                                                                      どんな時でも、お母さんから

これらの言葉を捕虜の間に読むことができたなら、ボブはどれほど嬉しかったことでしょう。

 
ボブは母親のこの写真を、捕虜だった年月ずっと持っていました。


日本軍に捕らわれた米兵の40%近くにあたる1万1千人余の捕虜の母親が、息子生還の日を迎えられなかったことも、私たちは忘れるべきではありません。これらの母親もまた、何通もの手紙を息子に書き送っていたに違いないのです。