マーティン・クリスティ海兵隊大尉の思い出

ドン・ヴァーソー

転倒して頭部を負傷したマーティンが10月11日に亡くなったと知ったショック、私はまだ動揺しています。とても信じられません。友人のための用事で、ロージー夫人とヴァージニア州を旅行中だったというのは、彼らしいです。仲間を助けることこそは海兵隊員のなすべきことであり、私の66年来の友人マーティンが、彼の人生を捧げてきたことでした。

私が彼を初めて知ったとき、彼は、歴史に名を馳せる第四海兵隊第2大隊E中隊の班長を務める軍曹でした。コレヒドール要塞の沿岸防衛に当たる私たちの手薄な守備隊は、隣り合わせで配置されていました。年は私より6ヶ月若くとも、中国駐屯海兵隊員としては先輩の彼は、仲間の間でもよく知られていました。上海時代は交友はありませんでしたが、私たちは、戦火に巻き込まれたその地で、アメリカが自由の旗印を掲げ続けていることを世界に知らせるため、同じ通りを守っていたのです。

マーティンと本当に親しい友人になったのは、フィリピン防衛戦を戦い、それに続く40ヶ月の地獄のような捕虜体験から生還して何年も経ってからのことでした。その間、私たちの接点はほとんどありませんでしたが、どちらも再び軍人となり、あちこちに駐屯しました。朝鮮戦争にも送られましたが、そこで彼は将校になったのです。その後、ペンデルトン基地の第一海兵隊所属兵として、私たちは、第二次大戦時に建てられた古い兵舎(12B1)で一緒に仕事をすることになりました。彼は兵器部門の補佐官、私は写真部所属の曹長でした。

私たちの事務所は、第一海兵隊のパレードグラウンドに面していましたが、1959年5月そのグラウンドで、私たちの退役パレードが開かれました。友人や家族や多くの同僚が集まり、マーティンと私の長年の忠実な軍務を称えてくれました。
 



退役の日 ( 左 クリスティ氏、 右 ヴァーソー氏)

退役後、私たちは再び別の道を歩みました。マーティンは勉学に戻り、修士号を取得しました。それから彼は、ヴァージニア州の高校で6年間教師を務めました。その後彼は、国際開発機関の仕事を引き受け、ベトナムで働きました。そこでロージーと出会い結婚したのです。彼はベルヘリコプターの管理職としてイランでも働き、1993年に退職するまで人事開発部門で働きました。

日本人学生杉浦祥君(左) と、クリスティ氏 (右) 第4 海兵隊ディナーで
 

その後12年以上を経て、ロサンゼルス地域に落ち着いた私たちは、American Defenders of Bataan and Corregidor や American Ex-Prisoners of war などの元捕虜組織の為に一緒に働いたり、、第海兵隊生還者会の会長を務めたりしながら、再び友情を育んできました。クリスティ大尉は優秀な将校・指導者であり、彼を知る全ての人々から、敬愛と尊敬と賞賛を勝ち取りました。
 

マーティン・クリスティ退役海兵隊大尉
1921 -2008

 
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ドン・ヴァーソー氏は、第4海兵隊隊員で、クリスティ氏と同じく元日本軍捕虜